2024年5月15日水曜日

摂津国芥川に関係の深いいくつかの系譜の芥川氏について、馬部先生のお見立て

摂津池田家を見る上で、池田長正という人物は非常に重要な人物です。この長正の代で、池田家の発展の伸び代が芽生え、また反面、同族争いもしています。それから、この長正の代で、荒木村重につながる丹波出身の荒木氏が重く取り立てられます。

池田長正は、残された史料が断片的で、知りたい所の肝心な部分が今のところ見当たらず、それについては、周辺史料から推し量るしかありません。しかし、史料が無い訳ではありませんから、泣き言を言わずに証拠を紡ぐしかありません。
 その要素の一つで、同じような行動をする人物として、芥川孫十郎が居ます。しかし、この芥川姓はいくつか見られ、一つの筋としてみてしまうと、矛盾する動きをしており、混乱してしまいます。少なくとも私はそうでした。

この矛盾は、整理しておかねばならないと思っていたところ、私の尊敬する馬部先生のお見立てが、非常に参考になりました。またまた、備忘録的に、私の頭の中の整理としても、ちょっとブログに記事を投稿しておきます。

『戦国期細川権力の研究』からご紹介します。
※第二部 澄元・晴元派の興隆 第一章 細川澄元陣営の再編と上洛戦 3上洛戦の展開と軍事編成の変化「註:79」P250より

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この芥川氏の後継者について、天野忠幸氏は『二水記』永正17年5月10日条や『元長卿記』同日条の既述をもとに、三好之長の子である芥川次郎長則が養子に入ったと指摘している。しかし、芥川家に複数の系統があることに注意が必要である。
 長則の後継者は天文18年頃まで芥川孫十郎を名乗っているが、天文21年までに芥川右近大夫と改めている。(「親俊日記」天文11年6月13日条。成就院文書 <『戦三』240>。離宮八幡宮文書266号 <『戦三』340>。)それとは別に、天文18年11月に細川氏綱の命に従って、西岡にて段米の徴収にあたっている芥川美作守清正がいる(東寺百合文書い函121号 <『戦三』724>・『鹿王院文書』593号 <『戦三』266>)。彼は、直前の同年10月までは四郎右衞門尉を名乗っているので、孫十郎とは明らかに別人である。(広隆寺文書 <『戦三』255>・東寺百合文書ソ函245号)。
 応仁の乱の頃、阿波には勝浦荘の藏年貢を押領する芥川次郎がいるので(『西山地蔵院文書』4-18(2)号)、長則はこの家を継いだとみるほうがよいかと思われる。「故城記」(『阿波国微古雑抄』224頁)では、勝浦荘に近い那東郡び芥川氏を確認できる。
 最終的に清正へと受け継がれる豊後守の系統は、四国で畿内復帰の機会を窺っていたと思われる。「細川両家記」享禄4年閏5月13日条に「阿波衆堺より出張也、典厩・香川中務丞、築嶋に陣取給ふ」とみえる「香川中務丞」は、同じ一件を指して「去5日芥河中務丞・入江彦四郎至摂州入国」(増野春氏所蔵文書 <『戦三』73>。東京大学史料編纂所影写本で一部修正)とあることから芥川中務丞の誤りである。ここでの芥川氏は、三好元長らと行動をともにして摂津への上陸を果たしている。摂津への復帰は、天文2年3月11日付けの将軍義晴の御内書で、伊丹氏や池田氏などの有力摂津国人に並んで、芥川中務丞が宛所となっていることからも窺える。(「御内書引付」<『続群書類従』第23号下>)。のちに晴元方に芥川豊後守がいることから、中務丞は歴代当主に倣い、豊後守に改称したものと思われる。(「親俊日記」天正8年閏6月13日条・『大館常興日記』同月13日条・15日条)。
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どこの家もですが、やはり、いくつかの系統があります。人物記などには、芥川孫十郎がよく出てきますので、耳馴染みがあり、地域史を知っている者からすれば、直ぐに摂津芥川氏と結びつけてしまいます。しかし、それをしてしまうと、混乱します。

馬部先生のお見立てでは、その芥川孫十郎は阿波国人であって、摂津との結びつきは希薄です。ただ、一方の摂津国人系で、阿波に一時的に身を寄せていた「四郎右衞門尉 - 豊後守」の系統のそもそもは、どちらも同族なのでしょう。

それで、この芥川孫十郎という人物が、池田長正と行動を共にしている事が多く、史料に散見されます。
 孫十郎は禁制の類いが多く出されていますが、それに対して摂津に強い結びつきを持つ豊後守系では、寺社などとのやり取りをしている自署文書が見られます。

今は、ザッと感覚的にご紹介しておきますが、芥川孫十郎は、確かに三好長慶系統の血族なのだとは思いますが、地盤が摂津に無いため、自らの権力基盤がありません。多分、収入というのも地場から得られるものはあまりなかったのでしょう。
 そうすると、三好長慶の近習的立場や様々な管理や取次などで、長慶の行動を支えたのかもしれません。孫十郎の活動拠点はよくわかりません。もちろん、本国の阿波からの身入りや立脚点はあったのでしょうけど...。
 それ故に、近畿地域での自らの権力の後ろ盾となる要素、人物、機会を求めて、表裏激しく行動しています。結局は、立場を失って、阿波国に却ってしまいます。どうも、細川晴元の誘いを受けて、何度か乗っては失敗しているように見えます。

一方、池田長正を見てみます。この人物も、池田信正亡き後、権力基盤を失って、細川晴元の権力を後ろ盾に行動していた時期があり、芥川孫十郎と同じく、同じ時期に、付いたり離れたりしており、同じ境遇からか、両者は名を連ねることが少なからずありました。

馬部先生のお見立ては、私の迷いに光を当てていただいたように思えました。細川晴元権力の実態と経過を分析することは、非常に有意義だと思います。私の観察している摂津池田家は、その権力実態の証拠としても非常に興味深い歴史になることでしょう。

 

主郭部分 2001年2月撮影

登城口から芥川山城を望む 2001年2月撮影

当時の石垣 2001年2月撮影

井戸跡 2001年2月撮影

当時の石垣その2 2001年2月撮影

主郭あたりからの眺望 2001年2月撮影

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