Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

到底至らない精妙さ

2022-06-25 | 
承前)初日に合わせて役作りをする。役に入るのには苦労しないが、自分自身を維持するのが難しくなるというのがアスミク・グリゴーリアンだ。即ち冷静に自らの表現を制御できる理性を保持する為の技術となる。彼女の舞台を経験している若しくはその稀有なタレントに関心を持っている者ならばそれが如何に大きな力の均衡の中で生じているのかを実感している筈だ。

当日朝は新たな遭遇となる事を、少なくとも六時間は準備時間を空けて、避けると話すのは、カナダ人のバーバラ・ハニンガンだ。彼女の飽く迄も精妙でクールな声の制御とその技術力を知っていれば、その様な心掛けは彼女の場合には殆どお呪いぐらいにしか感じないだろう。しかし新たなことは一切しない、新たなレストランにも行かないという。

彼女の公演に挑む態度は、その先生にならったように、プランAにBを必ず考えておくというのだ。容易に想像できるのは例えばその音程や経過のあり方で、精密機械以上に精妙にその声帯を制御するとなれば到底全てが思い通りには行かない。しかし、最初から目標をBの水準に合わせておいていたら到底Aには至らないというのだ。彼女の歌唱はそういうものである。

同時に映画の中で神経障害の老ピアニストをオールドバラで引退演奏会に引き出し、それに付き合う姿も映されている。要するにそれ程の細やかな神経が無ければ到底あのような芸術歌唱にはならないのだ。これは全く意外性もなく、楽屋には若いお兄さんのボーイフレンドが入っていて送り出している。そうした艶にも欠かない。

そのお兄さんがは彼女のお気に入りの衣装をまるで裁判官のガウンのようで好まないというのに対して、それだからいいと「ソクラテスが11人の裁判官に死を言わされるような儀式」であるので演奏会の衣装とは感じないとしている。繰り返すようだが彼女の舞台にそうしたオカルト的なものを感じる者は皆無だろうが、そのどこまでものクールな音楽への集中はそうして生じていることが知らされる。だから当日には全てに対してオープンに感受性を開いて最大級の集中で以て本番を迎えていることになる。

三人のソプラノを扱ったこの映画、当然の事乍ら三人の女性である。各々があまり競合する事の無い歌手で、其々に強みがあって、他の二人が真似のできない能力を芸を持っている。同時に各々がその限界領域で戦っていることは疑い様がない。それは最早業界でのキャリアとは無関係のところでの営みとなっている。

それは全て歌の炎を燃やすための営みとなる。やはり男性はそこ迄の情感との乖離と統合には至らないことが知れるような映像となっている。そもそもそこ迄細やかに表現を追求する男性は皆無であろう。芸術表現一般への新たな視野を拓いてくれる映画となっている。期間限定でネット公開中(英語インタヴュー、独仏字幕付き)。



参照:
管弦楽練習の立ち合い 2019-09-11 | 音
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音

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