Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

洗礼のような仮死化

2022-06-22 | 
承前)女性の音楽家は何人も知己がある。正直よく分からないところもあった。それは今回の映画で描かれるオペラ歌手の仕事ぶりを観ると納得できる。なによりも役作りというところで、殆どトラップして仕舞っていて、カーテンコールがあって打ち上げでも戻っていないというエルモネーラ・ヤホの語りがある。

舞台では、蝶々さんの自らの動きをその場面に入りながら距離感を測ったりしているのだが、座って床の手触りや足でその風合いを感じている。それをしてまるで動物のようでテリトリーなんだと語っている。

ここで考えてみれば分かる。彼女が扮する役柄である。スタニスラフスキーシステムなどを出さなくても、イタリアの往年の歌手が語る様に炎を燃やして、自らがその役に憑依しない事には聴衆にはその信憑性や迫真性には及ばないことになる。

その炎によって自らも焼き焦がすこともあり得るだろう。まさしく復活祭の「スペードの女王」をキャンセルしたアスミク・グリゴーリアンの事情はこれで察することが可能になる。その演じるべきリザは、バーデンバーデンの演出ではナイフを持ったヘルマンを受け入れ、許婚とベットで縛りプレーをして、その後にヘルマンにバスの中で絞殺される。その間にサロンでロココ劇を演じる。それが全て音楽的な要求として求められた。求めるのはキリル・ペトレンコだ。自らを保つのが難しいと語るグリゴーリアン、一体どれほどの心理的な負担が掛かることか。要するに、その都度洗礼で水に沈められる様に、一度仮死化されるようなものだろう。

今迄中々実感が難しかったのはまさしくそこで、舞台での芝居ならば台詞によるその効果しかないのであるが、オペラの場合は更に強く直截に働きかける音楽の力がある。その効力も、ヤホが上で示していたように聴覚のみならず触覚とか、視覚や臭覚全てにおいてよリ敏感な傾向のある女性歌手においては男性が感じるよりも強く影響している可能性が高いのである。

だから先頃のヴィーンの「マノンレスコー」での登場で、謂われるほどの声ではなくてメディアが作った虚像とするような批評には真向から反論して、こちらはそれだけ準備してその都度全身全霊で演じているのだから評論する方も少しは準備をしろとSNSに書き込んだ。

ミュンヘンの「椿姫」の最終日の幕の裏では当時の支配人バッハラーが迎えて、ヤホが「キャンセルするぐらいなら死んでいた」というのは職業的な倫理観で上述の炎とは異なるかもしれない。しかし、精神的な活動としてこうした大舞台で主役を演ずる歌手は全身全霊の活動であるとともに、そうした職業的な責任感を担っていることは間違いがない。

そして、バーバラ・ハニンガンがやはり同じ初日当日について語っていて、我々は余計にそうした拘りを感じることが出来るのがこの制作である。(続く)



参照:
日本趣味とか極東ミックス 2021-04-14 | 文化一般
根源のフェークニュース 2022-05-10 | 文化一般

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