心技極まりて 体は美を表す

誰かの心のカギとなります様、願いを込めて

本来 後編2『天国の門』

2022-07-10 09:42:49 | ベース
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。探せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」
マタイ福音書
 
 個人的な意見として、『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。』は、『ちょうだい』・『はい、あげる』と単純なやり取りではなく、研究者の閃きの様なものである。

アルキメデスの閃き

むかしむかし、アルキメデスという名前の天才数学者がいました。
ある時、シラクサの国王ヒエロンは金細工師に金の固まりを渡すと、それで金の冠をつくるようにと命じました。やがて出来上がった冠はまばゆいばかりに光り輝いており、王さまは大満足です。
ところが金細工師が金に銀の混ぜ物をして、王さまからあずかった金の一部を盗んだといううわさが広まったのです。
そこでヒエロンはアルキメデスに、王冠を壊さずに混ぜ物がしてあるかどうか調べるように命じました。「かしこまりました。おまかせ下さい」と答えたものの、これにはすっかりまいってしまいました。
「はて、どうすればいいのだろう? 冠をつぶして調べればすぐにわかるだろうが、まさか王さまの冠をつぶしてしまうわけにはいかないし」。それからアルキメデスは、ああでもない、こうでもないと、昼も夜も考え込んでしまって、食べ物も喉を通らないほどです。
そんなある日の事、アルキメデスは風呂に入ったところ、お湯が湯船からあふれるのを見て、その瞬間『そうか、分かったぞ』と叫び、お湯の中から飛びあがりました。新しい発見に興奮して、まわりの物には何も目に入りません、服を着るのも忘れて裸で町の中を走っていったという伝説も残っている
後日、アルキメデスは金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れた。すると、王冠を入れると、金塊を入れたときよりも多くの水があふれ、金細工師の不正が明らかになった
 
 考えるとは、神返る(かむがえる)事であり、必死に考えに考えた末のひらめきが、神帰るであり、天国の門が開き神の叡智を手にする事が出来るのである。

イギリスの物理学者・ニュートンが、りんごの実が落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したことは有名な話ですが、彼はただりんごが落ちたから、引力があると言ったのでなく、前提として膨大な時間を全身全霊で事に当たった結果、リンゴの落下が万有引力の発見に繋がった。
 自身に問う事の深さが、天国の門をノックしているのか?体当たりしているのか?の違いである。そして、天国の門は、全身全霊で体当たりを何度も繰り返し挑まないと天国の門は開かない。天国の門は、素材を自我で出来ており、その構成要素は、主観と客観の分別した思考である。
叡智を手に入れる体験は、条件としては、高度な心的集中状態が一つの必然的心理過程とされる。そして、聴覚、痛覚、視覚、嗅覚などの外部からの刺激(感覚)を通して契機になって体験にいたる。 

明鏡止水の心に叡智を一滴落とし、波紋が広がるがごとく伝わる感覚と感動を体験する事をこいねがう。

つづく


本来 後編1「撃竹の悟り」

2022-07-03 21:32:56 | ベース
香厳智閑(きょうげんちかん)
 百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)禅師に師事し、幼少のころから聡明で見識もあり、弁舌が立つ優秀な弟子あったが、禅の道を悟れないままだった。百丈禅師が亡くなった後、兄弟子、潙山霊祐(いざんれいゆう)禅師のもとに行った。
 潙山禅師は香厳に対して『お前が経典から学んだことや、今まで積み重ねてきた学問の結論などではなく、父母未生以前の本来の自己を自身の一句で言ってみよ』と問いかけた。        
香厳は、熱心に参究し、得た答えを禅師に呈しても、師はその都度にこれを退けるのであった。
 ついに精根尽き果てた香厳は潙山禅師の前にでて『何とか御教示頂きたい』と哀願した。
 しかし潙山禅師は、『もしも私がお前のために説いてやったとしても、それは私の言葉であって、お前の答えに何の役にも立たないし、今解き明かせば、お前は私の悪口を言うようになる』と言って、彼の懇願に全くとりあってくれなかった。
 失望落胆した香厳は『絵に描いた餅は飢えを満たしはしない』と言って長年勉強してきた書物を全部焼き捨て修行をあきらめ、涙ながらに潙山禅師の道場を去り、慧忠国師(えちゅうこくし)の寺で墓守として一生を終えようと決めた。
 どのくらい時が過ぎたのか、ある日、いつものように庭を掃いている時、小石が竹に当たって『カーン』と響いた。と、その瞬間、香厳は忽然と大悟し、胸が高鳴り、涙があふれ出した。
 直ちに庵に帰って衣服を改め、香をたいてはるかに潙山禅師の方を礼拝して、『潙山禅師の大悲の大恩は父母の恩にもまさる。かつて私が懇願した時、潙山禅師が自分に教えてくれなかったことが、返って親切の極みであったという事も分かった。もし、潙山禅師が親切心で何か教えてくれたならば、今のような体験はできなかったであろうと、感謝の心が湧いてきた。』

重要なポイント
・幼少のころから聡明で見識もあり、弁舌が立つ優秀な弟子あった香厳が、禅の道を悟れない。
※知識や知恵で理解出来るものではない。
・小石が竹に当たって『カーン』と響いた、その瞬間に大悟した。                                  ※耳で音声を聞いて「道」「仏性」を悟ることを「聞声悟道(もんしょうごどう)」と言う                                               
悟りの体験は自分で体験しないと分からない。それを言葉で伝えることができないこと「不立文字(ふりゅうもんじ)」を言っている。

ちなみに、お釈迦様は、暁の明星がまばたくのを見た時に悟りを開いている。 とんちで有名な一休さんは、カラスの鳴き声を聞いた時に悟りを開いているし、ほかにも、桃の花を見ていた時や叩かれて時に悟りを開いている方もいる。                                       聴覚、痛覚、視覚、嗅覚などの外部からの刺激(感覚)を通して契機になっていると言うことができる。    
 しかし、誰でもカラスの鳴き声を聞いたり、桃の花を見るが悟ったりしない。悟るためには音、痛さ、視覚などの感覚だけではだめであることが分かる。
これらの悟りを経験した人達に共通するもう一つの因子がある。
                                            つづく

本来 中編『エデンの園への帰還』

2018-05-05 14:59:18 | ベース
旧約聖書・創世記にある。
アダムとエバはエデンの園で楽しく暮らしていたが、神様に食べてはいけないと言われていた真実(知恵)の実を取って食べてしまったため、エデンの園から追放されてしまいます。その際、「罰として」男性は、労働の苦しみを、女性は生みの苦しみを背負うことになりました。いわゆる原罪の話しである。

 真実(知恵)の実を手に入れることにより人は他の生き物より、ひと足先に進化をとげた。

では、進化した要因である『真実(知恵)の実』とはなにか?

  それは、『言葉』である。

 言葉を手に入れたことで、人は意識の中に自と他、時間と空間という概念を手に入れた。
 自(分)と他(人)とを区別してから、主観と客観が生じて自我が育った。その自我と言うフィルターを通して他を観ることで対立が生じた。人類は長い歴史の中で、争い・栄え・滅びを繰り返しながら生き残ってきた。その中で街を作り、文化を育みながら今の文明社会を築き上げてきた。しかし、主観と客観、二つに分かれる以前に大本である本来の姿があり、主観と客観の概念が出来ることによりその本来の姿を見失ってしまった

 だから、エデンの園から追放されたのではなく、見失ってしまったのである。そして本来は、今も人の心の根底で活動しているし、意識と同化している。

では、全知全能の神は、真実(知恵)の実を食べさせないために、『食べてはいけない』と言ったのか? 答えは『NO』である。
 『決してのぞかないで下さい。』や芸人の『押すなよ』と一緒で、『食べなさい』の意味で話したのである。そして、その神意は

童謡 『雪』

雪やこんこ 霰やこんこ。
降っても降っても まだ降りやまぬ。
犬は喜び 庭駈(か)けまわり、
猫は火燵(こたつ)で丸くなる。

猫は火燵(こたつ)が暖かいことは知っているが、なぜ暖かいかは知らないし、理解するすべを知らない。人間は学習することにより火燵(こたつ)の構造を理解出来、そして材料を購入することで、同じ物を再現して作製することも可能である。
生き物には、それぞれ理解出来る範囲があり、人は言葉と言うツール(道具)を手に入れる為に、一旦、エデンの園から遠ざかり(見失い)、そしてエデンの園への帰還することを全知全能の神は、望まれている。

人は、生き物を畜生と言う見下した言い方をすることがある、彼らは思考に囚われる事がなく今を自由に生きている。

『無一物中無尽蔵 花あり月あり楼台あり』
               蘇東坡

自我の執着がなくなった心には、万物の真の姿を現す。そして、自身が主人公となって融通無礙(ゆうずうむげ)にまわりが良い方向へ動き出し、真の自由を手にする。
 
真の自由とは、文章を読めば、雰囲気は何となく、つかめた感じになるかもしれないが、体験体得でしか得られないfont>

本来 前編『本来の面目』

2018-04-23 21:33:55 | ベース
『本来の面目』の公案というのは、『父母未生以前(ふぼみしょういぜん)における本来の面目如何(ほんらいのめんもくとはいかに)』というものである。達磨から数えて第六世にあたる大鑑慧能(だいかんえのう)が、恵明(えみょう)という僧から『悟りを開くには、どう工夫したらよいか?』と熱心にたずねられた際に示したものを、そのまま採って公案としたもので、見性のためにはうってつけの公案である。

六祖慧能は、父親が左遷で地方にとばされた上に、早くに亡くなってしまったために、母親との貧乏暮らしで、市場で薪を売って生計を支えていた。そのため勉強する機会に恵まれず読み書きが出来なかった。ある時、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを聞いて、心が求めているのは、これだと確信し、母親の世話を人に頼み、達磨から数えて第五世の大満弘忍(だいまんぐにん)のもとを訪れた。その際、禅的な素質に富んでいることを見抜かれて、寺男となって、昼は米つき・薪割り・庭掃除などの雑役に服していた。(当時、唐の国では、僧侶になるためには厳重な資格上の制限があった)そして人びとからは俗姓をとって盧行者(ろあんじゃ)と軽く扱われていた。

そして、あっという間に8ヶ月が過ぎたある日、五祖は、雲水(道を求める修行僧)たちに向かって『汝らのうち、われと思わんものは、自分の悟境を偈頌(げじゅ=宗教的真理含んだ詩)に託してみよ。わしの気に入る見解を呈したものがあったら、そのものに法を嗣がせ、伝法のしるしとして、達磨伝来の袈裟と鉄鉢とをゆずるであろう』と告報した。    

当時、五祖門下の修行者中の筆頭第一に位していた神秀上座(じんしゅうじょうざ)こそその選に入り、五祖の法を嗣ぐものだと誰もが思っていた。そうした期待の手前、神秀も今さら引っ込みもつかず、自らの境涯を

『 身は是れ菩提樹
  心は明鏡台の如し
  時々に勤めて払拭し
  塵埃を惹かしむること莫れ 』

という偈にまとめて、密かに廊下に張り出した。五祖はこれを見て『このとおりやれば間違いない』といっただけで、別段深く感動したふうもみえなかった。一方、盧行者もまた五祖のひそかな期待に応えて、自らの境涯を

『 菩提本と樹無し
  明鏡また台に非ず
  本来無一物
  何れの所にか塵埃を惹かんや 』

と同じく偈にまとめ、童子に代筆してもらって、それを人知れず廊下に貼りつけた。盧行者の偈は、一見、神秀の逆手にいったにすぎないようにみえるが、実はそうではない。これこそ達磨の禅の神髄を道破したもので、嗣法の資格を充分なことを示したものであった。法を伝え嗣がせるに足りるものを得ていたことに、五祖の喜びはいうまでもない。彼はその夜こっそり盧行者をよんで法を伝え、そのしるしにと達磨伝来の袈裟と鉄鉢とを渡して、彼を南方へ旅立たせたのであった。五祖弘忍からみれば伝法、六祖慧能からみれば嗣法がここに成立し、立派な一人の師家ができあがったわけである。

 一夜明けて翌日、神聖な袈裟と鉄鉢が無く盧行者も居ない、無学の盧行者が法を嗣いだことに納得できない数百人の雲水たちが『追いかけて取り返せ』とばかりに、諸方にわかれて盧行者のあとを追いかけた。およそ2ヶ月後、たまたま彼のたどった道を追いかけてきたのが、恵明で、大庾嶺という峠道で盧行者に追いついた。盧行者は追いかけてくる恵明に、袈裟と鉄鉢を渡そうとしたが、恵明は『私は法を求めおり、袈裟はいりません』という、そして『私は未だに悟れずにおります。どう工夫したら悟れるか、その工夫の仕方をお示しいただきたい。』と誠意を面にあらわして懇願した。そこで盧行者すなわち六祖慧能は、『不思善(ふぃしぜん)・不思悪(ふしあく)・正に与麽(よも)の時、如何なるか是れ、恵明が本来の面目?※』と言われた、すでに日頃の精進で禅定三昧の力を得ていた恵明は、この開示をうけるとそのまま『不思善・不思悪』の世界に入りこみ、『本来の面目』を徹見し、見性成仏の実をあげたのであった。『本来の面目』の公案は、この生きた歴史的な事実を素材に、その意味をとって簡潔に表現したものにほかならない。

 ※父母未生以前(ふぼみしょういぜん)・不思善(ふしぜん)・不思悪(ふしあく)対立する二極、対立する前は『無一物』であり、その時、あなたの本当の姿(真実の自己)とは、何ですか?と問うている。

修身『徳を積む』 後編

2017-04-13 18:17:13 | 
 心の平常心を失い動揺している時は、弓の陰を見て蛇や蠍ではかと思い込み、草むらの石を見て伏している虎ではないかと疑う。心が落ち着かないと、どんどん疑心暗鬼を生ずる。すべてが殺気に満ちているからである。
 逆に心の雑念がおさまれば、暴虐な人物も海を飛び交うカモメのように感じ、煩わしく感じていたカエルの鳴き声も、太鼓や笛のように聴くことが出来るのである。冷静になって考えると状況が良く見えてくる。

                                               菜根譚より

 

 身を修めるには先ずは、心を安定させなくてはいけない。なぜか?怒り・恐れ・好き・嫌いetcの感情や心配事などがあれば、心が正常な判断が出来なくなり、物を視ても見えず、声を聴いても聞こえなくなる。
人生で上手くいかない時ほど、気持ちが動揺して心に余裕がなくなり、空回りする。
そんな時は、他人への配慮する余裕が、人や社会とつながっていると実感すると共に、心の安定を生み出し視野を広げてくれる。


※他愛の心が、人や社会とつながっていると実感できる。

※他人への配慮する余裕が、心の安定を生み出してくれる。