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バルテュス パリ 世界わがスケッチの旅

バルテュス パリ 世界わがスケッチの旅 思い出

今日のスケッチ一枚、私は、パリのバルテュスのアトリエ前だと知らずにスケッチをしていた。


 ここは、パリ6区。フエルスタンベール通り4番地 最初のバルチュスのパリのアトリエのあった前広場である。サンジェルマン通りの近くの住宅街路である。

当時は、まだ無名のようで展覧会にも出されてなかったようだ。


 その時に、このスケッチの場所が番組のなかで出た、

彼のパリの最初のアトリエだと聞いた。私は、知らなかった。

彼は、1908年にパリで生まれ、2001年92歳でスイスでなくなった。

ひょっとして、そのころスイスやパリで、私と同じ時間を生きていたかもしれない。

たとえ、一寸の時間であっても、すれ違いの時を地球上で、共有することが

あったかも知れないと思うことが楽しいと思えるのだった。

画家は、ひとり一人自分の本当に描きたかったものを持っている。

ルネサンスと東洋との融合での新しい感覚を求めて生涯作品を描きつづけたのだ。

最初にパリの美術館で実物の絵を見た時に、私は、なにかしら日本人に抵抗感覚のないものの空気を感じたものだ。親しめる要素を絵のなかに感じていたのだ。


 バルテュスは美術学校で学ぶことなく、フランチェスカ、ニコラ・プッサン、ギュスターヴ・クールベなどを直に感じ、ヨーロッパ絵画の伝統を吸収し、現代のものから自分の独特の表現を追求していった天才的絵画人生であった。1962年の初来日以降、節子夫人という伴侶を得て、日本との関係は密接となっていった。

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最近、ふと自分の子供時代のことを、思い出してよく考えるようになった。

モーリス・ユトリロは、生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親もまた画家、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。

7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリリョに認知されて、「モーリス・ユトリロ」と改姓した。

それで、私が7歳のころまで、ユトリロがパリに実際生きていたと知った時に、なんとなく同じ地球の空気を吸っていたのだと思う今日この頃です。私は、小学校の時に児童画コンクールで日本1位になっているんです。

それで、興味があるものですから、パリの有名な画家たちの生きた場所へも行って見たし、スケッチもしてあります。ぎりぎり面影を構成してスケッチしてありますので、また後ほど掲載してみたいと思っています。


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