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「日本が見直された日・絆の時代」~東日本大震災以降14年之夢③

 東日本大震災を経て、日本人の美質が世界に知られた。
 私たちは命の儚さを知り、絆を強く求めるようになった。
 バブルの狂乱と平成の「失われた20年」を乗り越えて、
 日本人は人間らしく生きる生き方を求め始めたのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【震災の残したもの】

 東日本大震災はこの国に大きな爪痕を残しました。津波に襲われた港湾の街々は10年の年月を経て軒並み地形を変え、二度と海に沈まない対策が取られましたが、そこに戻ってくる住民は元通りとは行きません。大船渡では山側へ新たな住宅を建設したお宅が、今回の山林火災でまた家を失うという悲劇もおきました。温暖化による気候変動、高温や乾燥を考えると、どこが安全か分からなくなります。東北地方に限らず、もう田舎には住めないと思い始めている人も少なくないでしょう。

 しかし震災の爪痕と言えば、何といってもその最大のものは福島第一原発でしょう。2051年までに廃炉という計画ですが、それが可能だと考える人はほとんどいません。私も福一の廃炉を見届けてから死にたいのですが、だいぶ難しくなりました。見通しがないことには、長生きも頑張りようがありません。

【すべては無常だと思い知った日】

 もっとも、東日本大震災が残したものはそうした戸惑いだけではありませんでした。
 私たちはまず、すべての存在は永遠ではないということを、感覚的に、強烈に、心に刻むことができました。仏教でいう諸行無常です。
「自然の猛威の前に人々は余りにも無力だ」といった言い方もありますが、無力どころではありません。人類の諸行などは「津波の一嘗め」で跡形もなく、なくなってしまうのです。

 3月11日の午前中に新築住宅の引き渡しを受け、午後に失った人がいました。長い年月をかけて貯金をし、大きな借金を背負ってそれでも希望に満ちた出発を始めた矢先のことです。泣くこともできなかったかもしれません。
 経営する企業や商店、工場を一瞬にして失った人もいます。再建のための資金はハンパではありませんから復興は容易なことではなかったでしょう。
 
 しかしそれでもなお、人を失うよりは何倍もマシだということは言えます。震災と津波の中で家族や友人を失った人の悲しみや空しさには、想像を絶するものがあります。
 私は元教員ですから、やはり石巻市立大川小学校で、教職員の指の間から零れ落ちて行った74名の命のことを思わざるをえません。子どもたちが可哀そうなのはもちろんですが、命が奪われていくというのに何もできなかった先生たちの無念を思うと、心が張り裂けそうです。どんなに悔しかったことか――。
 人間は余りにも弱く儚い――それはすべての日本人があの日に感じたことです。ところが一方で、同じ日にまったく逆の事実も浮き彫りになってきます。私たちは驚くほど強く、逞しくもあったのです。

【「日本、凄い!」の始まり】

 それは最初、日本人には当たり前の風景として、誰も気づかなかったことでした。
 一部は昨日の終業式の話の中に書きましたが、東北地方では大地震と大津波、都会では鉄道の一斉運休による帰宅困難といった異常事態の中で、ようやく動き始めた多くの日本人の冷静な姿を、一緒に避難している外国の人たちがSNSなどで次々と発信し始めたのです。
 やがてアメリカ軍の「トモダチ作戦」を始めとする海外からの災害支援が始まって、外国人ジャーナリストが現地入りすると、被災地の人々の落ち着きや辛抱強さ、自分のことは後回しにして同胞を助けようとする姿、協力と支え合い、穏やかな諦念と逞しい情熱、そうしたものが驚きとともに、一斉に世界に広げられていったのです。「日本、凄い!」のはじまりです。

 我が国のジャーナリズムは、外国のお墨付きがないと自国を誉めません。経済の高度成長を果たして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持てはやされたあの時期も、バブル期を向かえて世界的経済大国になっても、マスメディアに登場する人たちは日本の悪口を言っていれば文化人としての地位を保てたのです。現在も「出羽守(でわのかみ:◯◯《では》とすぐに外国を引き合いに出して日本を貶める人たち)」と揶揄される人はいますが、それこそがジャーナリズムの世界では保守本流、旧主派といった人たちだったのです。
 
 私は教員として、日本人の美質は学校教育が守り育てて来た――古くは林羅山や対極にいる本居宣長を始めとする儒者国学者、新しいところでは現代日本の保育園・幼稚園、小中高校の無名の教師たちが、特別活動などで膨大な時間とエネルギーを使って子どもたちを育て、維持してきたと信じています。ですから教員になった80年代から一貫して「日本、凄い!(かなり特殊な民族だ)」なのですが、世界が一斉に注目し、日本人自身もようやく自覚し始めたのは東日本大震災以来のことなのです。

【絆の時代】

 2011年のキーワードはユーキャンの新語流行語大賞のトップ10にも入り、年末の京都清水寺の「今年の漢字」にも選ばれた「絆」でした。
 震災を通して諸行の無常を知った日本人たちは、強く絆を求めたのです。明日の命も分からないのですから、いま目の前にいる家族や友だちを大切にしなくてはならない、今日の恋人も明日はいないかもしれないのだから経済的なことなど考えている余裕はない、ほんとうに一緒にいたいと思う人と一日も早く暮らすべきだ――。「絆婚」と呼ばれる駆け込み婚が流行ったのも、この時期のことです。
 
 社会的、政治的なことには無関心と思われていた人たちも、積極的に日本や世界のことを考え始めます。一昨日紹介した《まいちゃん》のように、髪のカールをやめることで、ささやかでもいいから節電に協力しようという子も出てきます。
 大きな枠で言えば、とんでもない量の物資を被災地に運び込んでくれた《トモダチ作戦》の米軍には、日ごろはアメリカに対して素直でない人たちも感謝せずにはいられませんでした。政治的な駆け引き抜きで、世界の善意を信じることのできた稀有の時代でした。

【震前派、震後派】

 太平洋戦争が終わって70年近く経っていて、「戦前」「戦中」「戦後」という枠組みがうまく機能しなくなっていました。私はそこで東日本大震災を挟んで前後の「震前派」と「震後派」、復興の真っ最中の現場にいる「震中派」という概念をつくってもいいかもしれないと考えていました。
 「震後派」というのは震災から学んだ教訓を我がものとして、人間同士の絆を大切にし、正当に日本人しての誇りを持ち、海外の人々を含めて基本的に人間を信頼し、尊重できる人たちです。彼らが日本の中核になる――。
 半分、夢物語ですが。基本的にそう言いう方向は維持されると思っていたのです。ところが――。

 先に、関東大震災(1923年)からわずか8年後の1931年、満州事変が起こって命を惜しむ雰囲気が一気に消えてしまったと言いました。自由民本主義大正デモクラシーも吹っ飛んでしまいます。
 東日本大震災(2011年)を経て、人々は命の大切さと絆の重要性に深く心を傾けるようになっていました。ところがわずか8年後の2019年、絆を重んじるのとは全く異なる流れが、ゆっくりと近づいてきていたのです。
(この稿、続く)