モンゴル貴族出身の穎貴妃(1731年3月7日-1800年3月14日)について見てみたいと思います。
巴林氏はモンゴル族蒙古镶红旗人で時の皇帝乾隆に嫁ぎました。
清朝初期の頃のモンゴル出身の妃達は皇室ではとても重要視されていましたが、
穎貴妃の時代清朝後期においては、モンゴルは以前ほど重要な役割を担っていなかったため、モンゴル出身の妃達も、扱いはそれなりだったようです。
そんな中、穎貴妃はその美貌と聡明さで、皇帝に長く寵愛を受けた妃だったと言えます。
乾隆13年(1731年)巴林氏は17歳で入内、賜った身分は「那常在」でした。
3ヶ月後には「那貴人」へと。
更に3年後には「颖嫔」へと、身分が上がっていきます。
穎の封號は乾隆自ら決めたようです。
完善と聡彗を表す素敵な字ですね。
そして乾隆24年(1759年)に穎妃になりました。
美しく聡明な穎妃でしたが、残念な事に子どもに恵まれませんでした。
子どもがいないにも関わらず妃の位まで与えられたのは、
モンゴルの貴族出身だからのみならず、
彼女自身が乾隆に寵愛されていたからなのでしょう。
乾隆40年に令皇貴妃が亡くなった事をきっかけに、
当時まだ9歳だった皇貴妃の17皇子永璘の養母となります。
子どものいなかった穎妃は永璘をとてもかわいがり、また永璘も穎妃を実の母の様に慕い、母子の仲はとても良かったそうです。
嘉慶3年(1798年)既に退位し太上皇となった乾隆は、穎妃に貴妃の位を与えます。
ついに「太上皇穎貴妃」と成り、嘉慶皇帝の後宮の中で最も位の高い女性になりました。
太上皇穎貴妃になって2年後、乾隆が崩御した事により、
彼女の身分もまた、「穎太貴妃」となりました。
その後ゆったりと太貴妃の生活を送っていたのですが、
嘉慶5年の太貴妃の誕生日に事件が起こります。
ちょうど70歳のお誕生日の日を忙しさからか、嘉慶皇帝はすっかり忘れていたにも関わらず、
養子の永璘はもちろん忘れる事なく、盛大にお祝いをしたのです。
その事を知った嘉慶皇帝は弟の永璘を激しく叱責し、太貴妃のお誕生日の祝賀会もバタバタと取り止めになってしまいました。
この出来事に心を痛めた太貴妃は、数日後、失意の中亡くなってしまいます。
悲しみの余り亡くなったとも、自害されたとも言われていますが、事実は謎のままです。
後に乾隆の清裕陵に埋葬されました。