談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』の描く 紀元645年に起きた乙巳の変の画像。
江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。
切られた蘇我入鹿の首が飛んでいる。
屏風の陰で顔を背けるのは当時天皇よりも百済使節団の一員だった可能性が高い皇極天皇。
服装や屋敷の造り、登場人物の立ち姿などは平安時代のものである。(Wikipediaより引用)
因みにこのシーンののち、私邸に逃げ帰った古人大兄皇子は、
「韓人が鞍作を殺した!我が心痛し。」と叫んでいる。
つまり、古人は鞍作(蘇我入鹿)を殺した中大兄皇子は韓人(翹岐)だと言っているのである。
この文からも『日本書紀』編纂部にはウソを書けないバカ正直な編集員がいたことが解かる。
天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)が本当は兄弟ではなかった説は、
小林惠子(こばやし やすこ)氏の本などから、ひところ話題になりましたが、
私もこの二人は絶対に兄弟のはずがないと考えています。
但し、小林氏は日本人を誰でも彼でも外国人に比定してしまわれるお方なので、
私も中大兄皇子を百済王子・翹岐(ぎょうき)とする説にはおおいに賛同しますが、
大海人皇子を高句麗将軍・泉(淵)蓋蘇文とする説にはかなりの疑問を持っています。
小林惠子氏の文献解釈によると天武の方が天智より年上ではないかと考えており、
もしこの話が正確なら、天武が天智の弟とする設定はこれで破綻しているのです。
それなのに『日本書紀』は大海人を中大兄の同母弟と平気で書いているために、
多くの歴史学者は『日本書紀』の記載を無条件で事実として受け止めています。
その割に、大海人皇子は兄?の翹岐⇒中大兄皇子が登場しても暫くは登場せず、
その名が出てくるのは『孝徳天皇紀』以降で、しかも最初のうちは名前だけです。
『天智天皇紀』以降、大海人は中大兄の同母弟として普通に登場するようになりますが、
大海人が兄である中大兄の娘を何人も妃に貰っていることは、実に奇々怪々な話です。
普通、天智=中大兄は百済からの渡来人だった為に、倭人の間に溶け込むために、
自らの娘を倭人の中で実力者であった大海人=天武に嫁がせたと考えるべきです。
本当の兄弟ならこのような近親交配となる行為を生物的本能からも行うはずがありません。
ま、この辺りが『日本書紀』の隠蔽が粗雑な為に真実がバレてしまう理由なのですが、
こんな場合は普通政略結婚を考えるのが当たり前で、二人は実際は義兄弟なのでしょう。
私は大海人皇子の名からも天武を高句麗人ではなく、倭の海人族の実力者と考えています。
『皇極天皇紀』には、津守連大海が高句麗使となった話が記されていますが、
津守氏は住吉神社の歴代宮司の一族であり、大海人皇子を輩出した可能性もあります。
また、大海人皇子は宗像君徳善の娘・尼子(海女娘)の君とも結婚していますが、
これも大海人皇子が住吉族の長だとしたら、倭の海人族どうしなら、当然の話でしょう。
天智天皇の娘で、天武天皇の妃となった媛たち。
「母;蘇我山田石川麻呂の娘・越智郎女(おちのいらつめ)」
・大田皇女(おおたのひめみこ)「子・大来皇女(伊勢斎宮)、大津皇子」
・鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)(皇后・後の持統天皇) (子・草壁皇子)
「母;阿倍内麻呂の娘・橘娘(たちばなのいらつめ)」
・新田部の皇女 (子・舎人皇子 『日本書紀』編集長を務める)
「母;忍海小竜娘・忍海造色夫古娘(おしぬみのしこぶこのいらつめ)」
・大江皇女 (子・長皇子・弓削皇子)
天武妃には他にも以下の人たちがいる。
尼子(海女子?)の郎女(宗像君・徳善の娘) (子・高市皇子)
額田王・(威奈=イナ)鏡王の娘 (子・十市皇女) 大友皇子(弘文天皇)妃
額田王(ぬかたのおうきみ)は、高校の古文教科書にも出てくる短歌、
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」 でも有名である。
この熟田津(にきたつ)とは伊予の国の港で、当時、
倭国水軍は白村江の戦いに出向く途中で、伊予の国(愛媛県)に集結していた。
この時、潮も満ちたので、額田王が「潮も満ちてきたからそろそろ出発の時ですよ」
と詠んで、兵士たちのお尻を叩いたのがこの短歌である。
因みにこの鏡王の娘は額田王女と鏡王女の二人がいて、
姉の鏡王女は中臣鎌足の妃となっている。
天智が百済王子翹岐(ぎょうき)であることからも、この鏡王とは百済人の可能性が高い。
後世、鏡王は摂津国川辺郡為奈(イナ)郷(兵庫県尼崎市東北部)に住んでらしいから、
百済が滅亡する前に、翹岐や智積らとともに、倭国に亡命していた可能性が高い。
それに対し、天智天皇(中大兄皇子)の妃は、沢山いますが、
皇后の倭皇女が(謀反の疑いをかけ自ら殺した)古人大兄皇子の娘である以外は、
こちらも自らが滅ぼした蘇我氏系の娘のことが多いようです。
このことからも、蘇我氏も内部争いを含んでおり、蘇我宗家の入鹿に反目する連中、
蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤江辺りが中大兄皇子を支持していたであろうと考えます。
その為、入鹿と蝦夷が殺されたにもかかわらず、朝廷は大きな混乱に至っていないのです。
石川麻呂や赤江はその辺の功績により、自分の娘を中大兄皇子に嫁がせたのでしょう。
- 皇后:倭姫王(やまとひめのおおきみ) - 古人大兄皇子娘
- 夫人:蘇我遠智娘(おちのいらつめ) - 蘇我倉山田石川麻呂女
- 夫人:蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂娘
- 嬪:蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ) - 蘇我赤兄女
- 嬪:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ) - 阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の女
- 夫人:道君伊羅都売(いらつめ) - 道君氏女
- 采女:宅子娘(やかこのいらつめ) - 伊賀国造某女?
- 宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - 忍海造小竜女
- 宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - 栗隈首徳万女
- 皇女:水主皇女(みぬしのひめみこ、後に内親王)
(以上、Wikipediaより引用)
私などは『日本書紀』は最も欺瞞に満ちた『史書』に過ぎないと考えています。
だから万世一系などは当然、明らかにあり得ない話であり、逆に『日本書紀』は
万世一系を成立させるために無理な改竄を続けてしまっているわけです。
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