先日の私のブログ、

 

「なぜ卑弥呼神社がないのか」

 

に対し、富貴名無さんから、以下のような、コメントを頂きました。

 

こんにちは(^^)
鹿児島神宮のすぐ近くに、
卑弥呼神社という少し不思議な神社があり、
そこから北東に行くと蛭児神社…
何か不思議な関係がありそうだなぁて思ったことがありました。
旅の思い出がよみがえりました。
ありがとうございました。
 やはり、卑弥呼神社は実際にあったのである。
 つまり、田中英道氏の怪しげな説は、やはり大嘘だったのである。
 
 卑弥呼神社とは、鹿児島県霧島市隼人町にある鹿児島神宮の摂社である。
 
 卑弥呼神社の由緒書きには、以下のように記されている。
 

 御祭神:卑弥呼女王
 由緒:
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の女王・卑弥呼が国分・隼人地区に居城を持っていたという由来に基づき建立された神社です。
 卑弥呼は日本最初の国王であり日本の統治者であった。当時 神武天皇及び天皇の率いる軍隊が中国の魏の国を助けてたくさんの褒美をもらっていた。
 近年、吉野ヶ里遺跡が分かってから邪馬台国はいよいよ九州説に決定した。

 国は九州の薩摩から博多まで及び、博多の南の反抗する国が吉野ヶ里である。

 
 などと記されているが、この由緒書きから解るように、卑弥呼神社は、
後世(多分最近)に『魏志倭人伝』を読んだ人によって作られた神社と思われる。
 由来書きには、邪馬台国の女王・卑弥呼が国分・隼人地区に居城を持っていたとするが、先ずは卑弥呼を邪馬台国の女王と限定しているところが、多くの論者やマスコミと同じ間違いを犯している。
 何故なら『魏志倭人伝』に卑弥呼は、邪馬台国女王ではなく、倭女王と記されている。
 当時の倭国は九州から東北にかけて勢力を及ぼしていた大和朝廷、つまり、日本国そのものではなくて、南の狗奴国と争う、一地方政権に過ぎなかったのである。
 また当時、神武天皇軍が中国の魏の国を助けて、たくさんの褒美をもらっていたなんて話は、『魏志倭人伝』を始め、どの『史書』にも載っていない話である。
 そもそも当時の倭国に中国の強国である魏を助ける?能力など持っていなかった。
 倭国は単に、女王卑弥呼が魏の王都・洛陽に使者を遣わしたに過ぎないのである。
 また、倭国の範囲を、九州の薩摩から博多まで及び、などと書いてあるのも、
 明らかに卑弥呼神社を建立した人たちの単なる願望に過ぎない。
 由緒書きでは、卑弥呼の治める邪馬台国が博多の南にある吉野ケ里と争っていたと書いてあるが、その場合、吉野ケ里は狗奴国となるが、狗奴国の官に狗古智比狗(菊池彦)があることからも、狗奴国とは明らかに、熊本(球磨国)のことと考えられるのである。
 
 ところで、蛭児神社の蛭児とは、血を吸う蛭ではなくて、昼児(日子)神社のことである。
 昼児(ヒルコ)と昼女(ヒルメ)、即ち、(日子=彦)と(日女=姫)はペアである。
 
 古代日本の政治は、倭国の例を持ち出すまでもなく、ヒメヒコ制にて行われていたのだ。
 
 
 

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