今回は、卑弥呼神社の本体である、鹿児島神宮について、書きたいと思います。

 

この神社は鹿児島県霧島市隼人町にあり、昔は大隅正八幡宮と呼ばれていました。

ではなぜ、この鹿児島神宮が正八幡宮と呼ばれるのかと云うと、

鹿児島神宮と、宇佐神宮(宇佐八幡宮)との間には、

八幡宮総本山の認定をめぐって、激しい争いがあったようです。

 

しかし、香春岳の古宮八幡宮、香春神社、御許山の大元神社、小山田神社、鷹居神社

などを巡った後に、小椋山(亀山)山頂に築かれ、奈良時代に大仏建立にも一役買った

宇佐神宮は、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮をも従え、

全国八幡宮の総本山として、一日の長があります。

 

これに対し、鹿児島神宮は大隅正八幡宮の「縁起書き」を見てみると、

震旦国(呉国を指すらしい)の陳大王の娘・大比留女(おおひるめ)は、

『古事記』では、天照大御神として記されている女王であるが、

七歳のとき夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。

 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、

「日本の大隅の磯岸に着き給う。その太子を八幡と号し奉る。

(…)大隅国に留まりて、八幡宮に祭られ給えり」。

母は「筑前国(…)香椎聖母大菩薩と現れ給えり」とある。

 

つまり、皇子の八幡神は流れ着いた大隅の鹿児島神宮で祀られたとされ、

母親の大比留女は、再び船に乗ると、福岡の香椎宮に流れ着き、当地で、

香椎聖母大菩薩(これは神功皇后のことか?)として、祀られたことになる。

更に、鹿児島神宮の主祭神は、彦穂穂出見命と豊玉姫命とされているから、

鹿児島神宮は明らかに『記・紀』の編纂後に作られた神社であり、

建立後に主祭神を、八幡宮の主祭神である応神天皇と神功皇后から、

彦火火出見命(火遠理命)と豊玉姫命に入れ替えられたと考えられる。

 

ところが、実際の歴史を振り返ってみると、薩摩国大隅の地では養老4年(720年)に、

隼人の乱が起こっており、大和朝廷は大伴旅人(歌人・大友家持の父親)を大将として、

討伐軍を大隅半島に派遣し、反乱を起こした隼人族を大量に虐殺した年である。

又、養老4年(720年)は『日本書紀』が編纂され、『風土記』編纂が始まった年でもある。

 

因みに、隼人の乱では、宇佐の民が大量に朝廷軍として駆り出されている。

これはどういうことかと云うと、実際の隼人の乱とは、朝鮮半島から渡来して、

北九州に住み着いていた秦氏が、南九州に大量に移住した話なのである。

当時北九州の香春から宇佐辺りを中心に大量の秦氏が居住していた。

そのためか、『隋書』はこの辺りの地域を、中国との違いが解らない【秦王国】だと記している。

この辺りの話は、大和岩男氏の著書、

 

日本にあった朝鮮王国ー謎の「晋王国と古代信仰

 

に詳しく、記されている。

 

朝鮮半島から渡来してきた秦氏は人口が増えすぎて、北九州の香椎から香春、

田河、都、行橋、築上、宇佐辺りに拡がっていた、即ち、秦王国が手狭となった為に、

南九州の大隅半島に新天地を求めて大量の人民の移住を行ったのである。

 

これは、移住先の大隅に住んでいた隼人族はさぞや驚いたことであろう。

彼らが、大和朝廷の勝手な政策により、自らの土地を強引に奪われたことに、

たいへんな怒りを覚えて起こしたのが隼人の乱だったわけである。

 

この構図はアメリカ大陸の例を参考にするとよく解る。

隼人族=アメリカ大陸に昔から居住していたインディアン、

秦氏=ヨーロッパの諸国からアメリカを開拓に来た白人、

と考えると、解りやすいわけである。

 

何時でも先進の技術を持つ開拓者が勝者で、古くから住む原住民は敗者であり、

歴史とは必ず勝者の立場から、編纂されるものである。

 

先祖代々の土地をよそ者に強引に奪われた隼人族は、戦わざるを得なかった。

それに対し、大和朝廷は、隼人族の大量虐殺という、非人道的行為を以て、

有無を言わさず、隼人族から先祖代々の土地を奪ったのである。

 

殺された大勢の隼人族の死骸は、大隅の地で、隼人塚に埋められた。

 

隼人塚(鹿児島県霧島市隼人町見次)

 

そして、なかには、宇佐に連行され、宇佐で首を刎ねられた隼人もいたようだ。

宇佐で首を刎ねられた隼人たちの首は、同地の凶首塚に埋められた。

 

凶首塚(大分県宇佐市北宇佐)

 

 

 

この記事が気に入られた方は下記バナーを二つ共クリックして、応援の程よろしくお願い致します。

 


にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ
にほんブログ村