昨年11月に1泊2日で伊勢に行きました。今日は、伊勢市中心部の様子をご覧いただきます。主な見所は、伊勢神宮外宮、伊勢神宮内宮、おはらい町、おかげ横丁、猿田彦神社、月讀宮、倭姫宮です。

2日目午前中、伊勢

二見浦から伊勢市駅

古来、伊勢神宮に参拝する前には、清き渚と称される二見浦で禊(沐浴)を行うのが慣わしであり、現代では、それに代わるものとして、二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)で祓い清めを受けることになっている。

というわけで、伊勢初日に、(正式に祓い清めを受けることまではしなかったが)二見興玉神社を参拝し、二見浦のホテルに宿泊した。

ホテルを9時前にチェックアウト、二見浦駅まで歩き、JR参宮線に乗り、8分、伊勢市駅下車。荷物を観光案内所に預けて出発。

伊勢神宮

伊勢神宮には、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)を祀る「皇大神宮」(こうたいじんぐう)と、衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る「豊受大神宮」(とようけだいじんぐう)の二つの正宮(しょうぐう)がある。一般に、それぞれ、「内宮」(ないくう)、「外宮」(げくう)と呼ばれる。

伊勢神宮は、神社本庁の本宗(ほんそう)(全ての神社の上に立つ神社)である。伊勢神宮は、皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室の権威との結びつきが強い。

また、中世以降は、皇室のみならず「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集めた。江戸時代には、数十年周期で「今、伊勢神宮がアツい!」と数か月間のうちに数百万人が参拝する「お蔭参り」(おかげまいり)が3回発生した。

複数の神社を参拝する場合、格の高い神社から低い神社の順が一般的であるが、伊勢神宮では、通常の神事は外宮から内宮の順に行われ(外宮先祭と呼ばれる)、参拝も外宮から内宮の順で行うのが正しいとされる。

伊勢神宮外宮

伊勢市駅南口から5分ほど歩くと、伊勢神宮外宮の外縁部にたどり着く。目の前に伊勢神宮外宮の広大な敷地が広がっている。

神域の入口には、防火のためにつくられた堀川が流れ、火除橋(ひよけばし)が架けられている。境内は左側通行と決められており、橋の真ん中に立て札と中央分離帯がある。

火除橋を渡ると、左手に、勾玉の形をした池「まがたま池」があり、ほとりに「せんぐう館」という博物館がある。

せんぐう館は、20年に1度の式年遷宮(社殿を造り直し祭神を遷座する)が2013年に行われることを記念して2012年に開館した博物館。外宮正殿の原寸大模型の展示をはじめ、伊勢神宮について教えてくれる。

入館料は大人300円。あまり時間を取られたくなかったし、普段の個人手配旅行だったらスルーするかもしれないが、パッケージツアー特典でチケットを持っていたので入ってみた。展示の量は多すぎず、外宮正殿の原寸大模型は必見の価値があった。

参道に戻って、参道の逆側には、清盛楠と呼ばれる名木が立っている。「平清盛が勅使として参向した時、冠に触れた枝を切らせた」という伝承がある。「清盛さん、何やってんスか」と思う半面、こうして清盛楠という名前が付いたのだからよいのだろう。

鳥居をくぐり、森の中の参道を進む。

再び鳥居をくぐると、開けた場所に出る。神楽殿五丈殿九丈殿四⾄神(みやのめぐりのかみ)が、立っている。このエリアは写真撮影が禁止されている。

三ッ石と呼ばれる三個の石を重ねた石積みがある。三ッ石の前で、御装束神宝や奉仕員を祓い清める式年遷宮の「川原大祓」が行われる。伊勢神宮からのお知らせでは「近年、手をかざす方がいますが、祭典に用いる場所なのでご遠慮ください」とのこと。

正宮は、外側から板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣の四重垣に囲まれている。参拝客は、鳥居をくぐって板垣の中に入ることはできるが、拝殿までしかアプローチはできない。正宮も写真撮影禁止なので、板垣の外から写真を撮った。

伊勢神宮外宮は、豊受大神宮と言い、米をはじめとする衣食住の恵みを与える産業の守護神である豊受大御神を祀っている。創建は、雄略天皇22年(西暦478年)に、天照大御神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)として丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を迎えて祀ったとされる。内宮の御鎮座から約500年後である。

参道を少し戻り、高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられる亀石を渡って、多賀宮への参道を進む。多賀宮は石段の上にある。

多賀宮(たかのみや)は、正宮に次ぎに尊いとされる別宮の一つで、外宮に所属する4つの別宮のうち第1位である。他の別宮は、第2位の境外別宮の月夜見宮(つきよみのみや)、第3位の土宮(つちのみや)、第4位の風宮(かぜのみや)である。外宮境内にある別宮は、多賀宮、土宮、風宮の順に参拝するのが、古来の習わしとされる。

多賀宮の祭神は、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)。荒魂とは、神の荒々しい側面、荒ぶる魂であり、勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる(災いを引き起こすこともある)。なお、荒魂の対は、和魂(にぎみたま)と言い、神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。

多賀宮は、正宮と同時に創建されたと伝えられている。

土宮(つちのみや)の祭神は、古くからこの地の鎮守の神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)。古くは末社格の土御祖社であったが、宮川の氾濫を治めたとして、1128年に別宮に昇格した。

風宮(かぜのみや)は、内宮境内別宮の風日祈宮(かざひのみのみや)と同じく、風雨を司る級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)を祭神とする。古くは、末社格の風社(かぜのやしろ)であったが、1281年の元寇の時に神風を起こし日本を守ったとして、1293年に別宮に昇格した。

境内を一回りし、元の入口に戻った。外宮前バス停からバスに乗り、次の目的地である内宮へ向かった。

伊勢神宮内宮

内宮前バス停で下車し、少し歩くと広場となっており、その先に内宮への入口である宇治橋鳥居が立っている。

宇治橋鳥居は、宇治橋の外と内に立ち、高さ7.44メートル。鳥居は、20年に1回の式年遷宮にあたって造り直される。内宮の旧正殿の棟持柱が内側の鳥居に、外宮の旧正殿の棟持柱が外側の鳥居に用いられる。そして、旧鳥居は、伊勢参宮街道の鳥居となる。内側の鳥居は鈴鹿峠の麓の「関宿の東の追分」、外側の鳥居は桑名の「七里の渡し」の鳥居になる。

内宮は、五十鈴川の先にある。五十鈴川に架かる宇治橋は、日常世界と神域を結ぶ架け橋である。宇治橋は、全長101.8メートル、幅8.4メートル。境内は右側通行と決められており、橋の真ん中に立て札と中央分離帯がある。

しばらく幅の広い参道が続き、神苑と呼ばれる広場を過ぎ、さらに参道を進んでいくと、火除橋があり、小さな川を渡る。

火除橋を渡りしばらく進み、参道右手の緩やかな斜面を下ると、五十鈴川が清らかに流れる御手洗場に出る。御手洗場は、手水舎と同じく清めの場である。

五十鈴川は、「御裳濯川」(みもすそがわ)とも呼ばれ、倭姫命が御裳のすそを濯いだことから名付けられたと伝えられている。

森の中の参道を進む。鳥居の先には、開けたエリアがあり、神楽殿五丈殿四⾄神(みやのめぐりのかみ)等がある。このエリアは写真撮影が禁止されている。さらに進むと正宮に至る。

正宮は、石段の上の高台に鎮座し、外側から板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣の四重垣に囲まれている。参拝客は、鳥居をくぐって板垣の中に入ることはできるが、拝殿までしかアプローチはできない。写真撮影は、石段の下までしか許可されていない。

伊勢神宮内宮は、皇大神宮と言い、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神を祀っている。三種の神器の一つである八咫鏡をご神体とする。

天孫降臨の際、天照大御神は、三種の神器を授けるにあたり、その一つ八咫鏡に自身の神霊を込めたとされ、八咫鏡は、代々の天皇の側に置かれた。崇神天皇6年(紀元前92年)、天皇の側で神鏡を祀るのは恐れ多いとして、八咫鏡は、大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が祀ることとされた。垂仁天皇25年(紀元前5年)、倭姫命(やまとひめのみこと)が後を継ぎ、天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。垂仁天皇26年(紀元前4年)、倭姫命は、伊勢国にたどり着き、天照大御神の神託を受け、五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀った。これが、皇大神宮の始まりとされる。

御垣に沿うように山道の参道を歩いていくと、外幣殿(げへいでん)が立っている。外幣殿は、幣帛を奉る社殿である。なお、内宮の外幣殿は正宮御垣の外にあるが、外宮の外幣殿は正宮御垣内にある。

山道の参道を進むと、内宮に所属する別宮の第1位である荒祭宮(あらまつりのみや)が立っている。祭神は、天照大御神荒御魂。荒祭宮は、正宮と同時に創建されたと伝えられている。

内宮に所属する別宮は、全部で10宮あり、内宮の境内に2宮、境外に8宮ある。

神楽殿等があるエリアに戻り、風日祈宮(かざひのみのみや)への参道を進む。鳥居の先に、五十鈴川支流の島路川に架かる風日祈宮御橋がある。宇治橋を小さくした橋で、長さ45.6メートル、幅4.6メートル。1498年に最初に架けられた。

風日祈宮(かざひのみのみや)は、内宮に所属する別宮の第9位。祭神は、外宮境内別宮の風宮と同じく、風雨を司る級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)。

以上で、内宮の正宮及び別宮のお参りを無事に済ますことができた。入口へ戻る途中、神楽殿前のメインの授与所は大変混雑していたが、「授与所は参集殿にもあります」という案内に従って参集殿に行くと、他の参拝客もおらず、ゆっくりできた。お守りと金杯を授かった。

おはらい町

宇治橋を渡り、現世に帰ってきたので、門前町(鳥居前町)としてにぎわう「おはらい町」に立ち寄った。

江戸時代のお伊勢参りブームの際、参拝客をお祓いや神楽でもてなしたことから、「おはらい町」と呼ばれるようになったと言われている。

現在、おはらい町は、江戸時代の町並みを見せているが、伊勢名物として全国的に有名な赤福のリーダーシップの下、1990年代に再生したもの。

高度経済成長期に近代化の波にさらされ、おはらい町は古い町並みを失っていて、バスや自動車で宇治橋前に乗り付けた伊勢神宮参拝者は、おはらい町に立ち寄ることなく去っていった。

1970年代は、伊勢神宮参拝者500万人、おはらい町観光客20万人だったが、現在は、伊勢神宮800万人、おはらい町400万人となった。高度経済成長によって失われたものが見事に復興した素晴らしい例である。

おはらい町の中心の一画は、お蔭参りでにぎわった頃の町並みが再現されている「おかげ横丁」である。伊勢特有の町並みである妻入の建物、伊勢河崎の蔵、桑名の洋館等を忠実に再現あるいは移築した28の建造物群が並んでいる。おかげ横丁は、1993年に赤福の子会社である伊勢福が開業し、おはらい町の復興をけん引した。とくに仕切りや入場料等はない。

おかげ横丁内のふくすけでランチに伊勢うどんを食べた。伊勢うどんは、たまり醤油に昆布や鰹節などの出汁を加えた黒く濃厚なタレを、太い麺に絡めて食べる。太麺のため、ゆで時間は1時間ほどかかるが、店では常にゆで続けるため注文を受けてすぐに提供できる。お伊勢参りで混み合う客を次々とさばくのに適している。

朝から歩き続けたので、おかげ横丁で少しゆっくりした。

2日目午後、伊勢

猿田彦神社

おはらい町を後にし、10分弱歩いて、猿田彦神社に到着。

猿田彦神社は、猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀る神社。猿田彦神は、天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神であり、猿田彦神社は、みちひらき、交通安全、方位除けの神社として信仰されている。

猿田彦神は、邇邇芸命の天降りの先導を終えた後、故郷である伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。猿田彦神の子孫の大田命は、倭姫命に五十鈴川川上の地を献上し、伊勢神宮が創建された。大田命の子孫は、神宮に代々奉職し、また、邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦神を祀った。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社とし、現在の猿田彦神社となった。

ところで、全国約2000社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は、鈴鹿市にある椿大神社ということになっている(昭和10年内務省神社局調査)。しかし、「椿大明神」を祭る「椿神社」は全国各地に存在しているものの、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないと言い、当社が神宮内宮の近くに所在していることもあって、当社を猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多いそうだ。

境内には、天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る佐瑠女神社(さるめじんじゃ)があり、芸能の神として信仰されている。

天宇受売命は、天照大御神が天岩戸に隠れた「岩戸隠れ」の時に活躍した後、天孫降臨の時には猿田彦神の相手をし、一説には猿田彦神と結婚したとされる。

たくさんの幟が立っていたが、数々の芸能人の名前があった。

月讀宮

猿田彦神社を後にし、1キロメートルほど北東の月讀宮へ歩いた。

月讀宮(つきよみのみや)は、伊勢神宮内宮に所属する別宮の第2位。祭神は、外宮境外別宮の月夜見宮(つきよみのみや)の祭神である月夜見尊(つきよみのみこと)と同じ神である月讀尊(つきよみのみこと)。月讀尊は、天照大御神の弟神である。

間違えて国道23号を進んでしまったため、裏参道の入口に到着した。県道37号を進めば表参道の鳥居に到着する。

鳥居の中は、森である。

鳥居に入って直ぐ、小さな社がある。葭原神社(あしはらじんじゃ)は、内宮の末社16社のうち第3位。祭神は、佐佐津比古命(ささつひこのみこと)、宇加乃御玉御祖命(うかのみたまのみおやのみこと)、伊加利比賣命(いかりひめのみこと)で、3柱とも田畑の守護神で五穀豊穣の神とされる。

森の中の参道を進むと、開けた場所に出て、4つの社殿が立っている。向かって右(東)から、月讀尊の荒魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)、月讀宮、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭神とする伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祭神とする伊佐奈弥宮(いざなみのみや)であり、いずれも内宮別宮である。

伊弉諾尊と伊弉冉尊は、天地開闢において神世七代(かみのよななよ)の最後に生まれた神であり、「国産み」および「神産み」の神である。

参拝客は少なく、静かにお参りすることができた。

倭姫宮

月讀宮を後にし、さらに北へ1.5キロメートルの倭姫宮へ向かった。倭姫宮は、倉田山に鎮座しており、県道37号の緩やかながらも坂道を歩いて行った。この頃になると、かなり疲労してきていたので、バスかタクシーに乗りたかった。

倭姫前の交差点の側に、森の中へ誘う鳥居がある。

森の中の参道を進み、さらに石段を上る。

倭姫宮(やまとひめのみや)は、伊勢神宮内宮に所属する別宮の第10位。祭神は、第11代垂仁天皇の第四皇女であり伊勢神宮を創建した倭姫命。倭姫宮は、1923年に創建された。

行きと帰りに1組ずつの参拝客とすれ違っただけで、静かにお参りすることができた。

倭姫宮を後にし、山の上の方の鳥居から出ると、神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)、神宮美術館神宮農業館があった。

ここからバスに乗りたかったが、バス停を探そうとした時にバスが行ってしまった。ここで、帰りの電車までの時間30分強、伊勢市駅まで2キロメートルの道程だったので、疲労もピークに達していたが、何とか歩いた。

お家に帰るまでが旅行です

伊勢市駅から300メートルの外宮境外別宮の月夜見宮(つきよみのみや)にも行くべきだったのだが、時間切れだった。ただし、神宮徴古館でバスに乗れていたとしても、疲れていたので、あきらめたと思う。猿田彦神社からの一連の移動手段を確保しておくべきだった。

伊勢市駅15時17分発、近鉄名古屋16時37分着、名古屋16時06分発のぞみ236号、新横浜18時26分着、横浜線に乗り換え、横浜で東海道線に乗り換え、藤沢下車、帰宅。

以上、2020年11月の伊勢旅行の様子をご覧いただきました。

今後とも、くま旅日記をよろしくお願いいたします。

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