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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その5)卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった

2022-07-01 00:02:21 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
②卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった
前回述べましたとおり、纏向遺跡に集まった狗奴国の有力者らはとうとう重い腰を上げて、狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ)は倭国に追討軍を送る決心をしたと推理しています。何度も恐縮ですが、下の図は当時の状況を表したものです。



ここで倭国王難升米は、瀬戸内海沿岸部に作った高地性集落の狼煙によって、狗奴国軍が動き出したことを察知したと推理しています(注1)。高地性集落のデーターベースから弥生終末期の狗奴国軍の動きを監視したと考えられる倭国側の高地性集落を調べて、可能性のある狼煙台を図に追加しました。

前回見たように纏向遺跡の外来土器の様子から、この時期の周防・芸予の勢力は既に倭国側についていた模様ですが、讃岐や阿波の勢力は途中から狗奴国を裏切って、倭国についたと考えています。このことは、後の古墳時代初頭(三世紀末)に狗奴国によって讃岐や芸予の勢力などが攻撃されていたことが、鉄鏃・銅鏃の出土状況からも分かるのです。特に狗奴国に近い讃岐などの高地性集落はこの時期には戦略的にとても重要です。なので、倭国勢の実力ナンバー・ツーと考えられる卑弥呼の弟赤坂比古の懐柔を受けて、同族の誼で狗奴国を裏切り少人数で狗奴国の動きを監視したと推理しています。宗像市田熊遺跡と同じ読み香川県三豊市詫間町はムナカタ族が入植した土地の地名で、不弥国の長官多模(たま、たも)に由来すると考えられます(「投馬国へ水行してみませんか?」(注4)参照。

丁度そのタイミングで北部九州で日食が起こりました(247年3月24日日没直前、北九州市・中国地方西部は皆既日食)。伊都国では皆既日食ではありませんが、太陽が欠けながら海に沈む、珍しい日没帯食が見られました。日中の皆既日食であれば時間とともに太陽が再び現れますが、伊都国を王都とした難升米らは、日没帯食を見て、太陽がもう二度と登らないかも知れないと恐れたことでしょう。太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたために起こったと考え、持衰(じさい)と同様に生贄として、卑弥呼の弟赤坂比古に内密で、卑弥呼の暗殺を部下に命じたと推理しました(注2)。前回(その4)⑯で述べたとおり、卑弥呼の男性の付き人の協力がないと暗殺は成功しなかったと推理しています。でも頭のいい難升米は、赤坂比古に知られない様にその男が卑弥呼を殺したと偽装したかもしれませんね(^_-)-☆

卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。当初、卑弥呼が難升米に暗殺されたことを、赤坂比古が知ったので狗奴国軍と戦うことを止めて、同じムナカタ族の王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)に先代赤坂比古の裏切りを謝罪して投降したと推理しました(話は逸れますが、『新説「因幡の白兎」だ!』は先代赤坂の裏切りで身ぐるみ剥がされた先代狗古智卑狗の王子(白兎)の故事を民話にしたものですよ(^_-)-☆)。

赤坂比古は難升米が卑弥呼暗殺を命じたのを知ったのか、どうかまでは確かめられませんが、卑弥呼が死んだことは、もともと先代が築いた邪馬台国(宇佐市史によれば、和妙抄で宇佐郡野麻郷は安心院町に比定されていますので、ヤマ国と呼ばれていたました)に出入りしていたはずの赤坂比古の部下によって伝えられたはずです。恐らく赤坂比古の部下に卑弥呼を警護する役目を与えていたと思われます。ですから、あの男が難升米のスパイでなければ卑弥呼暗殺は中々実現できなかったと思いますね(^_-)-☆

それで、卑弥呼の死を聞いた時の赤坂比古の精神状態は次のように想像できます。縄文海人ムナカタ族の信仰は、縄文人をルーツとする古琉球および琉球王国を中心に信仰されてきた多神教宗教である琉球神道に受け継がれていると考えられます(「誤解と幻想の卑弥呼」参照)。ですから赤坂比古は「おなり神」である姉を突然喪ってしまいショック状態になり(注3)、元々同族のムナカタ族が加わっている狗奴国軍に対して戦意喪失したと推理しました。

そのために倭国は分裂してしまい、難升米はさらに判断を間違えて、自身も狗奴国軍と戦わずに、多分司馬懿や帯方郡太守を頼って再起を図るつもりで、親魏倭王の金印を持って半島に逃亡したと推理しました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。しかし、魏使張政を倭国に置いたまま単独で逃亡したことで、墓穴を掘ってしまいました。後で分かりますが、この張政も相当頭の切れる人物でしたよ(^_-)-☆。

(注1)Wiki「高地性集落」に「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に[3]、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。」とあります。しかし、高地性集落DBによれば北部九州にもありますよ。北九州市の黒ケ畑遺跡は情報伝達の重要な集落だったと考えています(^◇^)

(注2)持衰(じさい)について、魏志倭人伝に以下のとおり説明されています。
其の行来・渡海、中国に詣るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食さず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。若(も)し行く者吉善(きちぜん)なれば、共に其の生口(せいこう)・財物を顧(こ)し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)へばなり。

太陽神を祭る卑弥呼についても、日食は卑弥呼が不謹慎だから起こったと考えて、不吉な予兆を打ち払うために生贄にしたと考えられます。しかし、難升米が殺したと分かると問題が大きくなるので、神の祟りか、神の祟りを怖れる何者かによって殺されたとカモフラージュしたかも知れません。

(注3)沖縄の男性の約60%が縄文系ですので、同じ縄文系のムナカタ海人族の信仰は琉球神道に伝えられていると考えています。wiki「おなり神」によれば、「柳田國男は、女性の霊的な力によって、妹が兄を守ったり、姉が弟を守ったりする精神的な力による支配を「妹の力」と述べ、これをおなり神信仰に当てはめた[2]。」とあり、卑弥呼と赤坂比古の場合も強い精神的な絆で結ばれていたと考えられます。シナ人の難升米はそのことをあまり理解していなかったのではないかと考えられますよ(^_-)-☆。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。次回をお楽しみに!(^^♪

通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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