朝顔の花の上の露

朝顔の花の上の露

心の内面の整理。「自分はサイコパスなのか否か?」全てはその自問自答から始まった。

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 自分語り(+α)を始めて7ヶ月、これで言いたかったことはあらかた書けたことだし、ここで更新をストップしようかと思う。でも気が向いたらある日突然舞い戻るかもしれない。

 それではまた。
 自分はタバコが大嫌いだ。近くに吸ってる人がいるとイライラする。もしその人に文句を言うとすれば、「こっちの健康にまで害を及ぼすからやめてくれ」ということになるだろう。

 じゃあ本当にそれを言えるのか?同様に車だって汚い排気ガスを出す。そうするとドライバーにも同じ文句を言わなければならなくなるが、とてもそんなことは言えない。もちろんタバコはあくまで嗜好品だし、一方で車は必要に駆られて使ってるという違いはあるだろう。だが車に趣味で乗る人だっているし、趣味でなくとも「遊びにいくのに必要だから」という理由で使う場合はもはや嗜好品との境目はあやふやになってくる。

 車とタバコはまだ差がはっきりしている方だとは思うが、世の中もっと微妙な問題が溢れてる。だから自分は揚げ足を取られるのを過剰に恐れてちょっとした文句ですら言う権利が無い気がしてしまうし、そういった価値観の多様性を尊重する性格だからこそ、誰かに考えを押しつけられるのも嫌い。
 進化というのは不思議なものだ。生物には様々な複雑な器官があるが、自然選択説によるとそれらは全て進化の過程においてどの段階でも適応的だったことになる。
 
 例えば目一つ取っても、硝子体やら水晶体やら角膜やら何やらあって、そこから視神経が脳まで伸びて・・・と複雑な構造を取っているが、一体どのようにそれが出来上がったのか?古代の生物の極めて単純な光受容体のようなものから突然変異を繰り返して、それらが全て適応的に働いて人間の眼球となったはずだが、その突然変異の繰り返しでやがて硝子体が出現するとか水晶体が出現するとか、その上それに至る過程全てが生存に有利だったとか、そういうのはあまりにも偶然性が高すぎる気がしてスッとは入ってこない。むしろ前回の仮想空間説のように、この世界の創造主がそういう生物を設定した、って言われたほうが遥かに理解しやすい。

 でもそんなのも全部、もともと他の器官として使われていたのが転用されたとか、突然変異の繰り返しと言っても失敗作は絶滅して生存に有利な変異を繰り返したものだけ今に残ったわけだから別に偶然でも何でもないとか、あるいはそもそも自然選択と言っても常に淘汰圧が高いわけでもなく、淘汰圧が低い状況ではある程度不利な変異も許されたとか、そういったことで科学的に説明できてしまうのだろう。現に複雑な構造をして高度な情報処理を行っている脳だって、実は非効率的で進化の過程においてその場しのぎの積み重ねをしてきただけだという。

 それでもやはり人間を含めて色んな生物の構造の複雑さを目の当たりにすると、不思議な感じしかしない。
 リング・らせん・ループという鈴木光司の三部作がある。今ではリングに登場する貞子が一人歩きしているような状況だが、自分にとって一番印象深かったのはループの世界観。コンピューター上の仮想空間でも、中から見ればちゃんとそれぞれの人の生活があるし、彼らはそこが仮想空間であることに気づかない。

 であれば、自分達が暮らしてるこの世界だって仮想空間でないとは言い切れないんじゃないだろうか?だとしたら、管理者の設定次第ではテレポートだろうが新たな生物の誕生だろうが何だって可能だ。もはや何でもありの世界。前回幽霊や神は信じないと書いたが、あれはあくまで見たことが無いから、証拠が無いからってだけであって、実際は何が起ころうが本当は不思議でもなんでも無いとぐらいには思ってる。

 そもそもこの世界が仮想空間では無かったところで、人間が見つけた物理法則が万能である保証はどこにもない。理論と銘打ちながらも、結局は例外を見つけたことが無いだけの経験則に過ぎないんだから。
 神とは何か?自分は幽霊も妖怪も神も信じない。

 神は自分の頭のなかに存在するもの。人はお祈りをすることで、自己暗示をかける。それによって集中力が高まったり心が強くなったりして、「自分の力で」願いが叶う場合もあれば、逆にその自己暗示がプレッシャーになって失敗することだってあるだろう。

 だから初詣なんてイベントには参加しない。自分に祈ることぐらい神社に行かなくてもどこでだってできる。

 神は自分の脳みその一部。
 一般に動物愛護は「正しい」こととされる。ではそれはなぜかと聞かれたらあなたはきちんと答えられるだろうか?
「・・・何となく可哀想だから?」
多分それは正解なのだろう。

 動物愛護を謳って、動物実験に反対する人達がいる。彼らのターゲットはマウスやウサギだ。同様に実験動物としてハエや線虫もよく用いられる。じゃあ彼らはハエに対しても「保護せよ!」と訴えるのか?そんなことはないだろう。結局「ウサギは可愛いから」、「サルは人に似ているから」可哀想だ、というただそれだけだ。要するに人間のエゴで対象の動物を選別しているに過ぎない。

 だが決してそれは間違ったことではない。この社会は人間のエゴから成る民主主義でできている。たとえ一部の動物をひいきしているにしても、それが多数派であれば「正しい」ことになるのだ。動物実験に関してはどちらが多数派なんて結論は出てないだろう。だから愛護派は「保護するのが当然」みたいな前提を持つのはおかしいし、実験を行う側も後ろめたい気持ちを持つ必要なんて無い。おかしいと思えば議論で争えばいいだけ。それで相手を納得させて、お互いの陣地に引き込めばいい。物別れに終わった場合は仕方ない。泥沼化するか、裁判で争うか、国が法律を作って無理やり決着をつけるしかないだろう。

 それこそが人間の社会の成り立ち。
 幸せになるのなんて簡単だ。ちょっと物の見方を変えてやればいい。まずは小さな喜びを発見する。道を歩いてる時であれば、綺麗な花を見た、いい匂いがした、何でもいい。小さな喜びを発見したら幸せだなあと感じてうっとりする。無理矢理でもいい。そのうち慣れる。これでドーパミンやらエンドルフィンやら出るようになればお手のもの。人生はバラ色だ。

 周りの人を見ていると、不幸な出来事にばかり注目してぐちぐち言う人がいる。それによって満足して幸せになるのであれば、その人は周りを不幸にさえしないのならそうすればいい。人によって幸せの基準は異なる。でも不快に感じながらそういうことをしているのであれば、なぜそんなことをするのか意味が分からない。やめてしまえばいい。代わりに楽しいことを発見し、もしくは作り出し、それをひたすら楽しめばいい。ただし人によってはそれで堕落し、結果的に不幸になる場合もあるからそこは注意が必要。

 惨憺たる境遇にあって、どう足掻いても幸せになれるはずのない人というのも少なからずいるだろう。この世は不公平なんだから仕方ない。その場合はその境遇から抜け出せるチャンスを待つしか無い。あるいはマイナスを断ち切るための自殺というのも一つの選択肢なのかもしれない。しかし生きてこそ幸せになれる可能性が残るわけで、死んでしまったらもうそこでおしまい。何もない。その境遇から抜け出せない未来、あるいは今のマイナスを埋め合わせるだけのプラスが未来にないことが確定でもしてない限りは、自殺が最良の手段とは到底思えない。
 自分の国ぐらい、基本的には他国に頼らなくても自分達だけで十分守れるようになってほしい。それがこの国に住んでる一個人としての純粋な願い。

 じゃあお前は軍人になれるのか?と聞かれたら、それはノー。国のために、自分にとって一番大切な自分の命を差し出す気なんかさらっさら無い。

 まあ人間そんなもん。自己矛盾こそが人間らしさだとすら思ってるから、自己矛盾したところで自己嫌悪に陥ることも無い。
 ニュースを聞いてると、なぜか天皇には敬語を使う。意味が分からない。天皇というだけで偉いのか?はるか昔に人間宣言したんじゃなかったのか?人類みな平等だと思ってるから、皇族だけに敬語が使われてるのを聞くとものすごい違和感を感じる。

 別に左翼で天皇が嫌いというわけではない。ただ単にその習慣が理解できないというだけ。日本の象徴だから敬うのが当然、という意見が多いけど、それが理由になると思う人は敬語を使えばいいし、思わない人は使わなければいいし。まあ天皇がどうこうというより、身分制度や上下関係といった概念にしっくりきてないだけなんだろうけど。

 国歌も同じ。近年は国歌歌うのを拒否してどうこうといったことがよく話題になるけど、国歌を強制する意味も分からない。日本に生まれたんだから日本に対する忠誠心や愛国心を持て、というのが押しつけにしか感じない。そういうことに縛られたくない。別に法律でこの場面では国歌を歌わなければならない、というのならそれに従えばいいと思う。そうじゃなくて、そうするのが「常識」だから、という理由だけで非難するのはとても正しいこととは思えない。



 結局価値観なんて一人ひとり違うものなんだから。



-別の結論-
 これを自分がルールに基づく善悪の区別はできても、ルールが存在しない時の(倫理に基づいた)善悪の区別が苦手、という結論に持っていけば、過去のサイコパス議論に行き着く。
 自分は「絶対」という言葉の使えない人間だ。

 「絶対そうだよ!」と言ったって間違ってることだってある。だからそういった自分の発言に責任を取りたくないから、「絶対」なんてそうそう使わない。

 「絶対こうするべきだ」なんて意見の押しつけも嫌い。いくら自分の経験でそれが最善だと分かりきってるからと言って、価値観の異なる他人にとってもそれが最善かどうかなんて分かるわけもない。だから「こうしてみたらどう?」なんてアドバイスはできるけど、「絶対こうした方がいいよ!」なんてうかつに言えない。

 ひとりひとり価値観の異なる社会。自分の価値観、あるいは自分達の文化こそが絶対だと思い、それを他人にも押しつけだすとすれ違いが起こり、やがては争いや戦争に発展する。そう考えると真の世界平和を望むことなんて夢のまた夢なのかもしれない。

 何が正しくて何が間違っているのか。一応法律で決まってはいるものの、それだって時代によって劇的に変化するし、国によっても全く違う。多くの人がそう感じるから何となくそれが相対的に正しいっぽい。結局そんなものでしかない。



 自分は「絶対」という言葉の使えない人間だ。