大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺」において、主人公の金栗四三の盟友として描かれる三島弥彦。東京帝国大学在籍の超スポーツエリート、として描かれる三島ですが、その家族には、一体どのような人物がいたのでしょうか。

このページでは、三島弥彦の家族というテーマで、彼の父母や兄でドラマにも登場する三島弥太郎、そして子孫の有無について詳しく調べてみました。

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三島弥彦の父親は「鬼県令」と呼ばれた警視総監


三島弥彦の父親は三島通庸(みちつね)という人物です。


三島通庸は1835年、薩摩(今の鹿児島県)で生まれました。「維新の三傑」として有名な西郷隆盛や大久保利通らが所属していた精忠組の一員でもあり、寺田屋事件に参加した後、西郷のすすめで藩主の島津忠義に仕えたという記録が残されています。その後も鳥羽伏見の戦いに従軍し、戦後に行われた薩摩藩の改革に携わりました。こうした功績を認められ、明治政府にも引き続き仕える事となります。

※参考:有馬新七ってどんな人?寺田屋事件や島津久光との関係について

明治初期の三島通庸は、山形、福島、栃木県等の県令を歴任します。山形県令時代には、学校や病院などの建設を手掛け、また土木工事を積極的に行った事から「土木県令」と呼ばれるようになります。また、福島、栃木県例時代には自由民権運動を厳しく弾圧した事もあり、この点から「鬼県令」と称された事もあります。そのため1884年には、民権派の過激派から命を狙われる「加波山事件」を起こされた事もありました。

1885年には5代目の警視総監に就任。警視庁内の武術の普及に勤めた事は大きな功績だと言われています。一方、1887年には自由民権運動を弾圧するために「保安条例」を制定。警視総監としてこの法令を積極的に推進しました。その翌年、在職中のまま53歳でなくなっています。

三島弥彦の母親は「女西郷」と呼ばれた女傑だった


続いて、三島弥彦の母である三島和歌子についてご紹介します。

三島和歌子は1845年、薩摩藩の下級藩士・柴山権助の娘として生まれました。和歌子は生涯で2度結婚しており、最初の結婚は14歳の時で、薩摩藩士である森岡昌純が相手でした。この縁組の背景には、和歌子の兄である柴山龍五郎の存在があったと言われています。

この柴山龍五郎、三島通庸と同じ精忠組のメンバーで、三島と共に寺田屋事件に参加したという記録が残されています。しかし、こうした兄や三島の行動は過激なものとみなされ、2人は謹慎処分。和歌子も嫁ぎ先の森岡家から離縁される事に。その後、詳細は伝わっていないのですが、和歌子は三島通庸と再婚する事になります。

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夫や兄の影響なのか、和歌子は剣術が得意でした。こうした特技を活かして、命を狙われる事があった夫・通庸のボディガードを務めていたという記録が残されています。こうした和歌子の振る舞いを、人々は「女西郷」と呼んで称賛していました。

和歌子は厳しい性格であった一方、三島家に仕えていた女中からは慕われていたと言われています。中には90歳を過ぎて仕えていた女中もいたとされ、和歌子の人望が伺えます。また、夫・通庸が妾との間に産んだ子も、実子と差別する事なく面倒を見たという記録も残されています。

和歌子は1924年に79歳で死去。長男の弥太郎より5歳長生きした事になります。

三島弥彦の兄は貴族院議員で日銀総裁の超エリート


三島弥彦の兄である三島弥太郎についても見てみましょう。


三島弥太郎は1867年、三島通庸と和歌子の長男として薩摩で生まれました。父の赴任地でもある山形県師範学校を卒業後、駒場農学校(現在の東京大学農学部)を経て、18歳で成績優秀者としてアメリカに渡ります。現在のマサチューセッツ大学で農政学を、コーネル大学大学院で害虫学を学んだ記録が残されています。こんなエリート、今でもなかなか居ないですよね。

1897年には貴族院議員に当選し、当時の桂太郎内閣が推進する鉄道国有化に尽力します。また、横浜正金銀行の頭取や日本銀行の8代目総裁を務める等、金融業界にも多くの関わりがありました。日本で初めて、民間銀行の預金金利の制定に携わった事が業績として残されています。しかし日銀総裁の職務はあまりにも激務だったのか、1919年に在職中のままなくなっています。この点は警視総監のまま生涯を閉じた父親に共通するものがありますね。

弥太郎はこちらも父親と同様、生涯に2度結婚しています。はじめの妻は同郷の大山巌の娘・信子でしたが、彼女が結核になった事がきっかけで離婚。その後は陸軍中将を務めた四条隆謌(たかうた)の娘、加根子と再婚。三人の子供を授かりました。

なお、三島弥太郎と大山信子の離婚に関しては、小説家・徳富蘆花が1898年に発表した代表作「不如帰」のモデルとして取り上げられており、そのため当時の人々の間では広く知られた出来事でした。この小説では、和歌子をモデルにした「お慶夫人」という女性が、大山信子をモデルとした結核に苦しむ主人公の女性を追い出す場面が描かれています。実際の和歌子はこうした事は行っておらず、最終的には作者の徳富蘆花から謝罪を受ける事となりました。

三島弥彦の子孫の有無は…?


最後に、三島弥彦の子孫の有無についても調べてみました。

弥彦の妻は鍋島文子という女性です。文子の父親は鍋島直柔(なおとう)子爵で、祖父は幕末の佐賀藩で藩主を務めた鍋島直正という人物です。幕末好きの方ならご存知かもしれませんね。

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この2人の間に子供はいたのか…ですが、ネットで調べた限りでは分かりませんでした。弥彦は1913年に帝大を卒業後、スポーツの世界からは離れており、1954年になくなるまで私人として生涯を過ごしています。仮に2人の間に子供がいれば、ドラマ開始後、「三島弥彦の子孫」という事でスポットライトが当たるかもしれませんね。

ちなみに、弥彦の兄の弥太郎には3人の子供がおり、このうち長男の三島通陽(みちはる)は、日本でボーイスカウト活動を広げた人物として知られています。弥太郎のひ孫には、ニッポン放送に勤務されている三島道義氏や、フリーアナウンサーの三島美佳子氏がいらっしゃいます。

まとめ


三島弥彦の家族というテーマで、父の三島通庸、母の三島和歌子、兄の三島弥太郎、そして子孫の方の有無についてご紹介しました。

ドラマでは、三島和歌子を女優の白石加代子さんが、弥太郎を俳優の小澤征悦さんが演じる事が発表されており、弥彦を演じる生田斗真さんと共に、それぞれの演技を見れるのが楽しみですよね。一方で、三島通庸は弥彦が2歳の時になくなっているため、ドラマでは登場しないのかもしれません。

また、放送が進むにつれ、弥彦と鍋島文子との間に子供はいたのか、子孫の方は現在でもいらっしゃるのかといった事も明らかになるかもしれません。この辺りも分かり次第、随時追記していければと思っています。