仏教の言葉に「諸行無常」というのがある。
 この世の全ての物は常に変化して、同じ所にとどまらないという。
 用具もしかり。
 ブッダの視点から見れば、私の用具が定まらないのも当たり前であって、これは私が優柔不断とか浮気性とか煮え切らないとか甲斐性が無いとかそういうアレでは決して無いのである。
 例えば1本のラケットを生涯使い続けたとしても、昨日のラケットと今日のラケットは同じではない。
 同じラケットに見えるが、常に変化し続けた結果、1年も経つ頃には全く別のラケットになっているのだ。
 木材5枚合板だった板薄ラケットが、5年も経つ頃には板厚カーボンラケットに変化していても不思議では無い。
 1本のラケットを使い続けるのも、練習の度にラケットをちょこちょこ換えるのも、本質的には同質である。

 さて私はつい前回こんな記事を書いた。
 

 生涯を共にするラケットが決まったとも読み取れるし、そうではないともいえる。
 誰も気にしなければ、どちらの解釈も重なり合って同時に存在することができるのだ。
 
 
 遥かなる仏陀と量子力学の地平について思いを馳せながら、久々となるつじまる師匠との練習会に向かうべく飛び乗った電車が30分も遅延しやがってこれじゃ練習に間に合わねえじゃねえかこの※※※※
 などと汚い言葉は決して使用しない紳士である私は、お気に入りの文庫本を片手に優雅な時間を堪能した。

 最近めっきり用具に対する関心が薄れていたが、つじまる師匠との練習が決まった途端、寝た子がムクムクムックリと起き上がるように、失われたナニかが蘇ってきた。
 のり助さんとスポンジを駆使して数枚のラバーを貼ったり剥がしたり。
 散々迷ったあげく選び抜いた5本のラケットをどでかいリュックに詰め込んでいざ鎌倉、いやFloral capital TOKYO。
 遅延電車から遅延電車に乗り継ぎ途中で降りる駅を間違えて立っては座ってを屈伸運動のように繰り返し飛び乗ったバスが発車する前に降りようとして我に返ったり色々愉快な感じで体育館に到着。
 スマホのラインというアプリケーションソフトを駆使してつじまる師匠に連絡すると、台がまだ空いているとのこと。
 挨拶もそこそこに受付を完了し、素早く着替え、素早く着台し、素早くラケットを取り出し、そこでようやく落ち着いて素早く挨拶をした。
 「お久しぶりです、つじまる師匠!」 
 
 つづく