新庄嘉堂残日録

孫たち世代に語る建築論・デザインの本質
孫たち世代と一緒に考えたい謎に満ちた七世紀の古代史

斯界の通説・『運河』SD1901A その2

2022年07月06日 | 7世紀古代史論
ここまでは、わたくしも拙著『実在した倭京』(ミネルヴァ書房2021)の中で湊哲夫を支持して、運河ではあり得ないと、建設現場からの声を提示したのです。その骨子を再掲すれば、おおよそ次のようになるでしょうか。

 藤原宮中枢宮殿の建設のための仮設用運河であれば、どうして工事完了まで使わなかったのか。現代であれば大規模な工事用仮設道路であろう。その機能は建設資材の搬入だけではない。廃材や残材、治具や工具の搬出入に使う。建設工事を計画する工務部は、建設目的物たる主体施設の建設に邪魔にならないところから場内に進入して、施設建物が建たないルートを選んで計画するものだ。北大垣中門も大極殿院南門も版築による基壇ではなく、掘り込み地業で基礎を支えている。しかも、運河をわざわざ埋め立て、突き固めて、さらには軟弱にしてしまったところに柱を立てるべく、今度は穴を掘ってそこをさらに突き固めて基礎を作るという二度手間三度手間の工事をやっている、と発掘調査はいうのだ。考古学的な検出事実はそうなんだろう。しかし、その事実とそれが宮建設用の仮設運河であるということとは大きな齟齬をきたしているのではないのか。こんな主体施設の真下を通る仮設運河があったとはとても信じられない。古代の工務部を馬鹿にしているとしか思えない。だから、この一点でもってしても、藤原宮建設のための運河ではない。

 とまあ、いきりたって、奈良文化財研究所に対して「再考してほしい」という意味を込めてコラムにして掲載したのですが。この判断は単なる思いつきではなく、70年万博の広大な工事現場で働いていたわたくしの経験に基づくものなのです。現場事務所の構内にあった飯場でアポロ宇宙船の月着陸を観たという懐かしい思い出がある仕事場でした。
今回、ブログに掲載するにあたって上記の一覧表を作ってみて改めて分かったことは、この運河説に関して、奈良文化財研究所には議論の痕跡や蓄積が何も無いということです。40年間ですよ。表に示しましたように、「・・・と、いわれている」「・・・と、考えられている」と40年ずーっとこれで押し通してきたのです。絶対的な自信なのでしょうか。せめて一度ぐらい異説論者を招いて『運河』シンポジウムぐらいやればよかったのに、と思うのですが。(つづく)

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