新庄嘉堂残日録

孫たち世代に語る建築論・デザインの本質
孫たち世代と一緒に考えたい謎に満ちた七世紀の古代史

答えはもともとはっきりしていたのでは

2022年05月16日 | 7世紀古代史論
 何故、こんな意味不明の記事(『書紀』天武五年新城条)を取り上げて、ああだ、こうだと言い張るのでしょうか。『書紀』の建設記事を信じればいいじゃないかと思うのですが。その方が素直ですし、がないからですが。
 そうならないわけは一つしかないのでしょう。つまり、考古学的事実・先行条坊の存在です。持統四年以降の藤原京(新益京)・藤原宮の記事を信じたいのは山々なんです、みんな、研究者は。ところが、信じた途端に、「じゃあ、下から出てきた先行条坊は何なんだ?」「その建設はいつ始まったのだ?」となります。「直前」遺構というのが曲者なのですよね。歴史が続いている証拠なわけです。続いているのだから、藤原宮の直前に藤原京(新益京)の建設があったに違いない。あるいは、というか更にはというか、もっと強く「それ以外には考えられない」となるのでしょう。『書紀』天武五年新城条は探し当てた建設始発の唯一の答えなのです。
そして必然的に、『書紀』持統紀の記事はおかしいとなってゆくわけです。そして、『書紀』が言わない天武五年新城条を「これだ!」とやってしまったわけです。このスタンスは2022年の現在も基本的には斯界の暗黙の常識になっているのです。
『書紀』持統紀記事を信じると先行条坊とは何なんだ、となってしまいます。先行条坊を説明しようと思うと、天武五年新城条を無理やり解釈しなければならないわけです。この自家撞着から脱出できる方法は一つしかありません。それは「連続した歴史だけれども、先行条坊と藤原宮は別物だ」とすることです。こう考えれば、スッキリするのです。

藤原宮も新益京も『書紀』記載の通り、持統朝による建設である。
先行条坊は前代の条坊遺構であり、藤原宮建設とは関係がない。
新城は何を意味するのか不明である。斟酌する必要はない。

こうすれば、「じゃあ、先行条坊はいつ建設が始まったの?」と問われた時、藤原宮とは無関係に別途、研究すれば良いことになるのです。もちろん、研究の結果、先行条坊が藤原宮建設と関係があったということになっても一向に構わないのですが。いずれにしろ、一旦両者を切り離してはどうなんでしょう。
いやいや、この提案も斯界の空気(専門家の常識)からすれば、なかなか肯んじられることではないのかもしれませんが。

以上のように、もともと、答えははっきりしていたのかもしれません。先に観念があるのですよ、事実よりも先に。観念を通して事実を見る。こうすると、ねじ曲がらないはずがありませんよね。藤原の地に歴史の厚みを認めない、という先入観、暗黙知(専門家の常識)の為せる技なのかもしれませんね。

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