価値観 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

小論文指導をする。

それは単に技術やスキルを伝えるとことだけが目的ではない。

考え方を学び、人生の糧としてほしいといつも思っているし、だからこそ対話を重視し、人間同士の関わりが大切だ。


これは、先日、クリティカルシンキング講座で行った高校生の描いた図式チャートだ。

これはクリティカルシンキングを育てるための1つのトレーニングだ。

しかし世の中には受験のスキルのために、こんな学びが何の役に立つのかと考える人もいるであろう。


それよりも点が取れる小論文のコツを教えてくれれば、それで良いと考える人もいるであろうし、とにかく小論文のスキル、コツみたいなものだけを教えてもらえれば、他のことは余分だと考えている人も少なくない。


例えば、志望理由書と小論文を切り離すと言うのは、私にとってはなんだか妙な感じだし、両者は本質的に一体であり、そこに明確にキャラクターが求められる。

そのキャラクターとこのチャートは密接な関わりがあると私は思う。


しかし価値観の違いと言うのは仕方がないことで、その全てがコツのようなものだと考えてしまえば、その本質的な一体感は理解できないであろう。

どちらが良いとか、悪いとか、どちらが正しいと言うようなことではなくて、価値観の違いだ。

確かに合格することが目的であり、塾とはただそれだけを目的にビジネスをしているんだろうと思われることもあるであろう。


だから求めるものが単なるコツになるし、しかもバラバラになる。


でも、誰でも理念や理想があり、そこに信念が強くあれば譲ることのできないことだってある。

それが私の場合であれば、クリティカルシンキングであり、そうした考え方を学んでもらうことが譲れない事だ。

もちろん、相手にとっても同じようなものがある。

これは難しい問題だ。


しかも型を求める人にとっては、塾なんて受験のための道具に過ぎないし、偉そうなことを言うなと思う方もいるであろう。

それも価値観だ。


ただ、この両者の価値観はきっと交わることがない。

どちらが良いとか悪いとかではなく、接点がないのである。

そうした出会いは、両者にとって不幸であり、実りあるものにはならない。


価値観の違いとは難しい。

塾は道具のように見えることもあると思うけど、誰であれ人間であり想いがあり、矜持を持って生きている。

ときには、それが交わらないことも両者にとって異文化の尊重であろう。


こういう問題はいつも難しい。

だからこそ、自分とは異なる考えも尊重しながらも、同時に自分の役割はそこにはないことも自覚なければならない。

もしビジネスだけを考えたら我慢すべきなのかもしれないけど、それはなんとなく自分の生き方とは違う。


自分らしく生きるとは、こうした価値観を大切にすることであり、ときにはやせ我慢たって大切だ。


人間て難しいなとしみじみ思う。