王道の探求 | ドラクエ好きに悪い人はいない

ドラクエ好きに悪い人はいない

ドラクエから人生を哲学するブログ
ネタバレには全く配慮していませんのでご注意ください!

ドラクエ1の成功要因は

当時既に世に出されていたRPGの

『ウィザードリィ』と『ウルティマ』を

編集したことにある、という趣旨の記事が下記なのですが

 

【ゲーム語りの基礎教育:第一回】

初代ドラクエはRPGへの逆風の中に生まれた――

"ドラクエ以前"の国内RPG史に見る「苦闘」の歴史(多根清史)

http://news.denfaminicogamer.jp/column03/game-gatari01

 

 

ドラクエ1って、ストーリーも単純で

何がどうっていう訳ではないのだけれど。

勇者がお姫様を救って、ドラゴンを倒して、

世界を平和にする。

 

だけど、当時マニアにしか共有出来なかった

CRPGという領域を

無くてはならない要素が何か、突き詰めて絞って

誰にでも分かりやすく提示して。

「RPGとはこういうものですよ」という王道を作り上げた功績が

めちゃくちゃでかいと思っていて。

ドラクエシリーズどれが好きか?という議論で

ドラクエ1は順位に入れられないというか、

また別格の話だと思っていて。

 

それを「編集」と名付けるのは言い得て妙だし、

「編集」ってクリエイティブな作業だよな、と。

 

 

それから30年続くドラクエシリーズは

細かいストーリーやシステムの違いはあれど

基礎はどれも30年前のドラクエ1と同じで。

コマンドでの戦闘、レベルや経験値の概念。

ストーリーだって大枠は同じで、

最後ラスボスに戦って負けて

世界は平和になりませんでしたーー!とは絶対にならない。

 

 

昔から私は「王道」が好きなのだなあ…と

つくづく思う。

 

 

映画でも漫画でもマニアックなものよりも

多くの人が「良い!!」って言ってるものの方が好きだったりするので、

人生の限られた時間で、

この世にある全ての作品を味わい尽くせないのなら

最近は基本的にはある程度

世間で話題になっているものばかり観る様にしてる。

 

 

直近だと『シン・ゴジラ』が大好き過ぎて3回観たのですが

あれも、ベースは初代から変わらない。

ゴジラが街を破壊して、倒せるか…と思ったらまた復活して、

何度もピンチになるけど、最終的には人の力を結集して倒す。

 

だけれどそのベースの中に、

戦後から震災まで、脈々と流れるこの国の生き方と

1人1人の生き方が寄り合わさる様が詰め込まれてて、

さらにそれが庵野秀明ならではのマニアックさで味付けされて、

とにかくとにかく本当に最高で名作で

 

その中に、こんなセリフがある。

 

「しかし総理、自国の利益のために

 他国に犠牲を強いるのは、覇道です。」

 

『我が国は、人徳による、王道を往くべきか……』

 

 

荒木先生のノウハウが凝縮されまくった

『荒木飛呂彦の漫画術』(集英社新書)という本があって、

セミナーだったら数十万取っていい様な内容を

たった780円の本にして惜しみなくバラ撒いてしまっている

これまた最高の名著があり、

 

冒頭の「はじめに」の9ページが素晴らし過ぎるので

そこだけでも読む価値があると思うのですが。

 

一見異色に思える『ジョジョ』でも、

"僕自身は、「『ジョジョ』は王道漫画だ」という

自信を持って描き続けてきました"と、

荒木先生は下記の様に述べている。

 

ー本書は、「王道漫画の描き方」について解説することを目的とした本で、

簡単に言うと「ハウツー本」です。

 

ーただし、「王道漫画の描き方」は

漫画に限らず、もっと普遍的なハウツーであるようにも思います。

(中略)世界の構造を考えるという視点は、

科学や、社会の仕組みを考察する時にも

共通する様に感じます。

 

ー30年以上漫画を描き続けてきた中で、

様々な試行錯誤を繰り返してきました。

この本では、その過程で学んだ「王道漫画」の描き方を書いていきますが、

それは昔から存在する、揺るぎない「黄金の道」だと言えます。

漫画を描きたいのならば、漫画の王道を知り、

その「黄金の道」を歩むという意識を持ってほしいと思います。

 

 

堀井雄二さんのサインには、

「人生はロールプレイング」と書かれているけれど

 

 

ドラクエから人生を考察する、というこのブログが成り立っているのは

「ドラクエ」が世界の構造や、人生が凝縮された

揺るぎない王道であるからであって。

そこを紐解いていけば、自分の生き方と重なる部分があるからだと思う。

 

 

このブログも、切り口は変えてはいるものの

言ってることの大枠は

実は毎回同じといえば同じで。

 

このブログだって、

アドラーだって、

どんな自己啓発だって、

世界中のどんな宗教だって、

突き詰めれば根本は同じところに

行き着くんじゃないかって思ってる。

 

その根本を、いかに切り取って

表現していくかであって。

 

 

王道、いわば基本を学んで行くには

当たり前だけれど鍛錬の積み重ねしかなくて。

 

荒木飛呂彦さんは、さっきの続きで

こう語っている。

 

ーそして、漫画の王道は、時代を超えて愛され、

受け継がれて行く名作に行き着くはずです。

単に一過性でヒットすればいい、という人は、

たとえいくつかのヒット作を出せたとしても、

本当の意味での漫画の王道を知ることはないでしょう。

そもそも、そのような態度で描き続けられるほど

漫画は甘いものではない、と予め釘をさしておきます。

 

 

私、小さい頃はずっと漫画家になりたくて

元々平均より絵は上手い方ではあったんだけど。

 

2年くらい前、ちゃんと絵習おうと思って

絵画教室のデッサン会に体験で参加したことがあるのだけれど。

 

モデルの女性の体を美しいなあなんて思いながら

本当に、描けなくて。

全然形が、取れなくて。

 

デッサンが終わった後に

受講生みんなが自分のデッサンの中で良かったと思うものを数枚出して

品評会をするのだけれど。

当たり前ではあるけれど、ちゃんを絵を習って来ている人達の中で

私の絵は群を抜いて下手で。

みんな気に入った絵を写メったりしてるけれど

私の絵は誰にも撮られてなくて、

その場に並べられているのを見るのも恥ずかしいし、

見られるのも苦痛で。

 

自分が「下手なこと」を認めること

それを人に見られること、

それはとても恐ろしいことだ。

私は絵に関してはほとんど努力して来なかったけれど、

それが自分がずっと努力して誇りに思ってきたことであったなら

努力した分だけ、尚更。

 

 

漫画家の夢は割と早々に諦めてしまったし

絵も、元々が上手いってところに頼って

何もしてこなかった結果

この歳になったら当然、努力してた人に比べて雲泥の差ではあるけれど

 

 

文章を書くのはずっと好きで、続けていて。

20歳の時に作ったブログは12年間続いてるし、

その前も紙の日記を中1から付けていたし、

文章は絵よりも仕事で人目に触れることもあるスキルだから、

褒められる機会も多かった。

続けるというか、自然と、書きたくて書いていた。

 

でも、私はずっと内輪で

自分が認められる・否定されないところだけで

書いているだけだったんです。

 

mixiとか、ほとんど人に教えてない自分のプライベートなブログとか。

今年になってようやく、せめてこうやって

人に見せる形でのブログを始めて。

 

自分の文章をどうやって拡散すればいいかも良く分からないし

広い世の中に出て、でも駄目だった時に

「なんだあいつは内輪じゃまあまあだったけど、

 世間じゃ駄目だったんだね」って思われることが

私は何より怖くて。

 

 

それは果たして「努力」と言えるものだったのか。

 

 

前に付き合っていた人が格闘技をやっていて。

毎日毎日練習しては試合に出て。

私は人から本気で殴りにかかられたことも無いし、

そんなことしたいとも思わないし、

なぜあえて殴られに行くのか、怖くないのか、

相手に聞いたこともあった。

 

怖いと言っていた。

 

私は格闘技は一生やらないだろうから

殴られる怖さは想像するしかないけれど

だけどリングに立つ、試合に出る怖さは

種類は違うけれど少し分かる様な気がして

 

そしてそれを乗り越えないと、

その先の景色も見えることは無いのだと。

 

 

数年前、当時は周囲から注意されることが多かった新卒の子から

こう相談されたことがある。

 

―私は自分にしか無い価値を発揮したいんです。

 だから自分の意志とかじゃなくて、

 Aって言われたらBって意見を持ちたくなるんです

 

自分ならではの価値とかアイディアを発揮するのなんて、

まずは全部基礎を固めてからの話だよ、と

伝えたことをよく覚えてる。

 

 

志村けんの名言に、

「常識は基本線で、お笑いはその常識をひっくり返すところで、

 コントとして成り立っている。

 だから笑えるワケよ。

 お笑いに限らず、常識をバカにする奴に、

 常識を超えたことは絶対にできない。」という言葉がある。

 

体験で言った絵画教室の先生は、

「有名画家のクロッキーって単純な線でさらっと描いてて

 みんないきなり真似したがるんだけど、

 基本が出来てない人にそれが出来る訳ないんだよね」

「まずは何枚も何枚も描き続けて、形を見る目を養うことだ」

と言っていた。

 

コピーライター養成講座では、

「コピーは論理的なもので、才能なんかじゃない。

 本当の最後の最後にひらめきを使うこともあるが

 ひらめく為の枠組みは

 書く・考えるの繰り返しで理論を体得していくものだ。

 良いコピーを見つけたら何故良いと思ったのかを考え、

 電車の中に居る人がどんなことを考えていそうなのかを想像し、

 訓練をしなければならない。」

と繰り返し言われた。

 

 

全部、同じ話なんだと思う。

 

 

全ては基礎、その道の「王道」を学ぶこと。

そして王道を学ぶには

まずは人の真似をして、習得したことを人の目に晒して、

自分が下手であることを認めて、

そこからまた試行錯誤を繰り返すこと。

 

試合に出なければ、

自分の実力を知る怖さを乗り越えなければ、

それ以上なんて、絶対に行けない。

 

 

こんなことを自分の日記に書いたのが2年前のことなのだけれど、

私はこの2年間で、

一体何回自分から試合に出て来ただろうか。

 

 

 

先日、京都シーメックスが主催する

コンテンツビジネスのセミナーで、

"『ドラゴンクエスト』にみるゲームとメディア、30年の軌跡"

というテーマで、堀井雄二さんが出演するイベントがあった。

講演+希望者は交流会という、またとない機会で

だけど交流会の方はどうしても行けなくて、

講演だけ聞きにいった。

 

それこそ「王道」の過程を教えてくださる様な講演で、

本当に行って良かったのだけれど

 

一体どうしたらこういう物が作れる人になるのだろう、

そんな人とせっかく同じ場所に居るのに

この場を去らなきゃいけないことの名残惜しさや、

もやもやした気持ちを抱えながら、

会場を出た時

 

すごくたまたまだったのだけれど

交流会の会場に移動しようとしている、

堀井雄二さんが私の目の前に歩いてた。

周りには誰もおらず、1人で歩いてた。

 

 

あ……と思いながら、

思い切って御礼を伝えようか、

でも1参加者である私が話しかけたら迷惑だろうとか、

勇気が出せないでいる間に、

堀井雄二さんはエレベーターに乗ってしまった。

 

 

そのたった、数十秒の

またとない機会に

 

 

本日は本当に有り難うございますって、

話しかければ良かったじゃないか。

昔一度だけシナリオライターの面接でお会いしたことあるんです、

自分の名刺取り出して、このブログのタイトルでもペンで書き殴って

私もドラクエと人生を考え続けてるんです、良かったら読んでください、位

言えば良かったじゃないか。

講演のテーマにも繋がることだったのだから。

 

こんなの1分も時間を取らないことで。

多少は迷惑かもしれないけれど

そんなの一瞬の話ですぐに忘れられるだろうし、

自分が失うものなんて何も無いじゃないか。

ブログも見てもらえない可能性の方が高いけれど

それよりほんの少しでも、相手に知って貰う可能性に懸ける方が

遥かに選ぶべき行動じゃないか。

むしろ交流会に参加して話しかけるより、

印象に残りやすいタイミングとしては

この時が最適だったじゃないか。

 

「話せる機会なんてこの先二度と無い」って

シナリオライターの面接の時にも思ったのに、

私はまた、同じことを繰り返した。

 

 

ものすごく後悔して、

すごく打ちのめされた想いになって

 

 

私は今の私が、決してうまくいってるとは思っていなくて

 

 

なんというか、世間一般で言えば別にちゃんと働いてるし

それなりに幸せだし

致命的に何かがまずいという訳ではないけれど。

 

世間が、とかじゃなくて

私が、なりたい姿から比べると、

全く理想の状態ではなくて。

もう32歳にもなるのにあれも足りないこれも足りない、

周りと比べるとこんなに遅れてる、

焦りだらけでもどかしくて。

 

 

私が今そうなってしまってるのって、

こういう時にとっさに動けない自分、

その瞬間瞬間の積み重ねが、

今の自分を作って来たんじゃないかと。

 

 

「努力」なんて、ただ時間を投入すればいいだけのものじゃなくて、

創意工夫を全力で尽くしていくことであって。

創意工夫を全力で尽くすなら、

私はあの場で話しかけるべきだったし、

無理矢理名刺を渡すべきだった。

 

 

また私は、試合に出なかった。

 

 

何かを失敗したり後悔する度に、思う。

どんなことでも最終的には、

これはこれで良かったんだ、次に繋げよう、って

消化する様にしてきたけれど

そうした失敗って、いつまで許されるのだろうかと。

失敗している間に、どんどん年齢も重ねて

もう次は無いかもしれないのに

 

次は無いかもしれないけれど、怖いけれど

やっぱりこの経験を教訓に、

もし次があったら…に繋げていくしかない訳で。

というかそもそも、自分で次の機会を作っていくしかない訳で。

 

もし今度、同じ様なことがあったら

とっさに動ける様に、

すぐに試合に出れる様に、

私は準備運動をしておかなきゃいけない。

 

私を縛るものはいつもいつも

人に迷惑かもしれないとか、

自分なんかが調子にのっちゃいけないとか、

そういう「恐怖」ばかりだから。

 

それを乗り越える為にも、

とにかく、試合に出よう。

とにかく、人目に晒そう。

そして駄目なら振り返って、

次にどうするかを考えよう。

 

今はそれを意識して、動く様にしている。

 

 

昔出会った人の中に、

「聖書の様に、人が最後死ぬ時に抱えている様な

 人が立ち返る原典の様なものを作りたい」と

言っていた人が居た。

 

その時は面白いことを言う人だなあ、位にしか

思っていなかったのだけれど

今思い返すと、それはすごく共感出来て

 

 

人が生きる上での

根本の様なもの、いわば「王道」を

 

私も私なりに、探求していきたいし

それを私なりに、描き出していきたい。

 

 

結局どんなに不安だって

一気にワープしてゴールに辿り着ける道なんてなくって、

これから何をするにしたって

今していることの先にしか

道はないから、

元気は無くたって元気よく、

日々を積み重ねていくしかない。

 

とにかく今は、どんな小さなことでも

繰り返し、

試合に出続けるしかないんだ。

 

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おかださいこ

【別ブログ(日常のぐだぐだと旅日記)】

文化祭でうろうろするタイプ 

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