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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、前回の記事の続きです。
引き続き、アドラーが例に挙げた吃音の少年について書いています。
子どもが言葉に注意を払いすぎるとどうなるか。
子どもは、意識して表現をコントロールしようとするようになります。
普通に話すことができる子どもは、こういうことはしません。
無意識的に、いわば自動的に作用するはずのものを、意識的にコントロールしようとすると、その機能が制限されることになります。
このことの適切な例を、オーストリアの作家であるマイリンクが、『ひきがえるの飛行』というおとぎ話の中で挙げています。
ひきがえるは、千本の足を持った動物に出会い、すぐにこの珍しい動物の持っている力を賞賛し始めます。
そして、
「千ある足のうちでどれを最初に動かすのですか。どんな順序で残りの九百九十九の足を動かすのか教えていただけませんか。」
と尋ねました。
そこで、ムカデは考え始め、自分の足の動きを観察し始めます。
すると、足をコントロールしようとして、一歩も前に進めなくなったのです。
生命の過程をコントロールすることは大切なことですが、個々の動きをコントロールしようとすることには害があります。
どもるという習性が、子どもの未来の可能性に大いなる影響を及ぼし、子どもを育てている間、吃音に伴う明らかな不利益(子どもに向けられる家族の同情と注目)があるにも関わらず、状況を改善することよりも、弁解に逃避する人が多くいます。
このことは、両親にも子どもにも当てはまるのですが、どちらも未来を信じていないのです。
そして、子どもは特に他人に依存し、一見したところ不利であるものによって利益を維持することに満足するのです。
この見かけ上の不利益が利益に変えられる例は、フランスの小説家であるバルザックの小説の中に見られます。
バルザックは、二人の商人について書いています。
二人は取引で相手を出し抜こうと考えていました。
取引の最中に一人がどもり始めます。
これを見たもう一人は、驚いたことに、相手はどもることによって値段を提示する前に考える時間を稼いでいる、ということに気づきます。
そこで、対抗する方法を考えます。
すると、突然何も聞こえなくなりました。
そのために、今度は、相手が聞こえるように大きな声を出さなければならなくなり、どもっていたほうが不利になりました。
こうして、平等が再び確立されたのです。
どもっている人は、このメカニズムを自分のために時間をかせぎ、他の人を待たせるのに用いることがありますが、そのことで相手を責めてはいけません。
吃音の子どもは勇気づけ、優しく接するべきであり、友好的な啓蒙と子どもを勇気づけることによってのみ、治療は成功することでしょう。
【参考文献】
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