覚悟を決めて赴任地へ赴く | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年 4月23日


現在この日誌は、大阪から香港行きのフライト中に書いている。

3月末の海南島でのサタンの攻撃に耐えかねて、4月初め帰国した。



日本滞在中はサタンの攻撃もなく(しかし病状は相変わらずであるが)、今海南島へ行くと死ぬ程の苦しみに遭う事は予想している。


しかし私に対する神の思いは海南島にある。

日本滞在中の3週間、私の仕事は何とか大阪で出来ないか神に願って見たが、返事はない。

それで急遽、もう死んでも良いとの思いで海南島へ飛んでいる。

今、色々な事を思い出す。

戦争中、戦地へ行った軍人はこんな思いだったのだろうか。

十中八九、生きて帰れないと思っていたのだろうか。

又、パウロの事も思い出す。

最後にエルサレムに行った時、苦難と死が待ち受けている事を知っていた様だ。

しかし神への思いがそれに打ち勝った。

私の場合はパウロの十分の一にも値しないであろうが、似たような気持ちかなと思っている。

老人には病気の苦しみはつき物の様であるが、私の場合それにサタンが便乗して何倍も苦しめる。

この病気は何十年も前からだから対処方法を知っている。

聖霊を飲めば悪魔は来ないし、病気の苦痛はまるで他人事のようになる。

永い間この病気があったので聖霊を飲む(頭から下へ体内に水が流れる感じがする)手法を覚えた。

しかし先月頃からこの手法は出来なくなった。

理由は判っている。

神がサタンに私を苦しめる事を許可しているのである。

その理由も判っている。

私自身大きく変わる為、大きい苦しみが必要なのである。

聖書を読んでいて、この言葉を見つけた。

「イエスは聖霊に引き回され悪魔の試みに遭われた」

聖霊によって苦しめられているので、聖霊の助けは無かったと思っている。

実に悪魔の攻撃をもろに受けられた様である。


一生の間には、死に直面する事は誰でも二度三度はあると思う。

私も何度か経験した。

6才の時バナナに当たって疫痢となり1、2時間死んでいたそうである。

私はバナナは恐ろしいと云う記憶しかない。

17才の時、電柱の上で大の字になって感電し、死を経験した。

これはその過程まで詳細に覚えている。

19才の頃、雨の中電柱に登り、胴綱(ロープ)が雨に濡れて感電した。

腕に感電したので動く事が出来ず、直ぐ下を傘をさした多くの人が歩いているのが見えているが、誰も気付かず死んで行くのかと、大変うらめしかった。

これは何分か後に感電が無くなった。

多分、ロープが乾燥した。

25才位からサタンは金縛りで私を殺そうとした。

何分間の事であるが全く息が出来ず(死にそうになると色々な物が見えて来る。

悪魔と云っているが、実は可愛らしい動物であったり、大勢の天使達が心配そうにじっと見ていたり、もう駄目かと首が垂れる感じがしたら、どっと天使が飛びついてきて、息をするのを助ける。

死を経験する迄は神はサタンに許されているが、そこ迄である。

本当に殺すことは神は許していない。

40才代の頃、軽飛行機セスナを操縦していて非常に疲れ、大和川(大阪)のあたりで不時着しようと思った時、幼い頃からの事が次々と思い出され、このまま死ぬのかと思っていた。

何とか空港までたどり着いて事なきを得たが、こんな経験は一度しか無い。

サタンが私を殺そうとしている事は、イエス・キリストに救われて後、知っていたが神は許さなかった。

私も殺されそうになる度に対抗上、霊に強くなって来た。

旧約聖書を読むと、ダビデはサウル王に執拗に命を狙われた。

神様は自分が選んだ子ダビデを、その苦しみに合わせないようにする事は簡単であったと思っている(サウル王に物理的に出来ない様にするとか)。

…しかし聖書にはこの苦難によってダビデの信仰と霊性が大成長している事を発見する。

例えば、戦いに行くのにも、一つ一つ神に聞いている。

そして従っている。

戦いの用意をし、いきり立っている軍隊をなだめる事は容易ではないと思う。

例え殺されても神に従う覚悟がないと、とうてい出来そうにない。

ダビデにしてもパウロにしても、自ら選んで神に従っている。

拒否すれば出来ると思う。

私も又、拒否出来ると思うが、絶叫するイエス様の声を思い出すと、到底それは出来ない。

戦地に行く兵隊は拒否の自由を持っていない。

そこは大違いである。


現在、香港の空港待合室でこれを書いている。

私の幼い頃から思い出すと不思議なことがあった。

小学3年の頃迄、本当に算数は苦手であった。

ある日、宿題を2階の窓から捨てた。

それを見た姉が叱った。

その途端、算数をやる気が起きて来た。

と云うより、

「どこかから算数の能力が取り憑いた」

というのが正確の様である。

あっと云う間に理数系が上達し小学5、6年では2年位上級の教科書を楽々こなしていた。

学校の教科書1年分は4、5日でやってしまい、あとは遊んでいた記憶がある。

今でも少し憶えている天体等の数字は、その頃憶えたものである。

その物理系の能力は一生の内、大変役に立った。

同年輩の人が高校に行っている頃は、私は電気屋の職人をやっていた。

4年後、私は東京の大きい会社に入って夜は短大に通学していた。

友人は4年掛かって同じ短大に通っていたが私は3年間をスキップして入学させて呉れた。

理由は大学4年卒業後資格を取る事が普通の国家資格を私はすでに持っていたからである。

その頃、私の電気関係の能力はすごかったのでいくつかのエピソードがある。

ある時、短大で試験があった。

私にとってそれは簡単であったので、さっさと答えを書いて提出して帰ってしまった。

次に答案用紙が返って来て、0点である。

理由は答えはあっているが、式も書かずに答えを出す事はあり得ない。

だからカンニングに違いない、との事であった。

しかし、私にとっては暗算で出来る程度のものであった。

又、戦後電気工事技士の試験があった時、私は17、8才頃であったが、本を1冊丸暗記して受験した結果、中国地方(日本)で受験者約7000人の内、一番の成績であったとの知らせが来た。

その頃の暗記力もすごかった(戦後迄の資格を廃止し、大学教授から町の職人まで受験した試験に中学卒の私が一番の成績とは歴史上、類は無いと思っている)。

しかし、この能力は遺伝とも又、努力とも環境とも全く関係がない、ある時突然やって来た能力である。

又、霊的能力も小さい時からあった。

これはどうも母親の影響が考えられる。

小学生の頃から霊を感ずる能力が時々あった。

だからイエス・キリストに救われた時から神の声が聞こえた。


思い出すと色々と不思議はあるが、老人になった今振り返ると大きい力が作用して、私を一つの方向に持って来た。

今、断言出来るが、それは神である。

神は実に70年を掛けて不思議を行い、命を助け、その為多くの人が協力させられ、そして先に天に召された人達は私を神の業(わざ)を行った者として天国に帰って来る事を待っている。

もし私がここで挫折したら、天の大歓声は無駄になる。

天に在る多くの人達も失望する。

私は大いなる裏切り者になる。

もし長く生きたとしても3年と思っている。

それは神様が、

「私の大いなる業が始まったなら、あなたの命は3年であろう」

と云われたからである。


関連記事




--------------------------------------------------
このブログはブログランキングというものに参加しています。下のボタンをそれぞれクリックして頂くと、ランキングが上がります。ランキングが上がるとこのブログの読者も増えると思いますので、どうぞご協力をよろしくお願い致します。


スピリチュアル ブログランキングへ


キリスト教 ブログランキングへ