スコトーマは、気付くとスコトーマだった事自体を忘れガチ。 | キンジの自分軸哲学

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どもども。

 

キンジです。

 

 

 

スコトーマと言えば、

所謂、

盲点の事でありますが、

 

気付きを得るって事自体が、

アハ体験でもあり、

ある種の、

 

盲点から、新しい視点や、新しい概念を、

掘り起こされるものとなり、

 

その新しい視点や、新しい概念を活用する事によって、

 

過去との決別でもあり、

過去の繰り返しでは無く、

また、新しい世界観でもあり、

新しいゲーム性を持ってして、

現実を展開していったり、

 

色んな物事を、考察して行く事によって、

 

新しい経験値を、蓄えて行く事が、

可能になるものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

・・・・・・・が、

だからとは言っても、

 

そこに必要となる、

新しい視点や、新しい概念、

即ち、

 

新しい世界観や、新しいゲーム性ってものは、

何も大層に、

 

全くの別世界に行くって事や、

全くの別ゲームをプレイするって事ではないと、

僕自身は、思う次第ではありますね・・・・・・・。

 

 

 

 

・・・・・・と言うのも、

 

全くの別世界や、完全別物のゲーム自体を、

プレイするとは言っても、

 

それをプレイしたり、展開して行くのに、

必要となるのは、

やっぱり、

 

使い慣れた、概念理解や、構造理解ありきで、

 

それをプレイしたり、展開して行く事に、

なりガチであるからなのです。

 

 

 

それって言うのは、

結局は、

 

世界観を描くとか、ゲーム性を展開するとか言っても、

 

そこに、最低限に必要となるのは、

能率性ではあるからなのです。

 

 

 

・・・・・・・が、

 

それを、能率特化の状態で行うって事自体もまた、

それはある種の、

 

スピードと正確さだけを追求してしまう代物となり、

逆に、

 

世界観とか、ゲーム性のようなものは、

確かに出来上がるのではあるでしょうが・・・・・・・、

 

そこに、

 

生きている自分自身の居場所が、

存在している保証が、無くなって行くものでもあるからなのですよ・・・・・・。

 

 

 

 

即ち、

 

スピードと正確さだけを追求してしまうと、

そこには、

 

自分ならでは、自分でこそと言う風な、

 

人間性ってものが、

欠如してくる側面があるからなのです。

 

 

 

まぁ、

そこにこそ、

居場所ってものが、存在するように、

感じる人々ってものも、

 

その人の在り方によっては、

存在している事でしょうが、

 

そこで確固たる、

 

自分でこそ、自分ならでは、

自分らしさを、

高々と、宣言出来るのは、

結局は、

 

オリンピック選手や、一流スポーツ選手のみとなるのもまた、

必然ではある事なのでしょう。

 

 

 

 

即ち、

所謂、

 

一般市民であり、幼少期から、

特殊な訓練を受け続けれるような、

特別な環境に居なかった我々としては、

 

そこに必要となるのは、

 

基本とする、最低限の能率性の型と、

後は、

 

アート性でもあり、ゲーム性のようなものとなるのが、

所謂、

 

一流の天才では無く、

 

凡人枠にカテゴラリーされているであろう我々には、

必須の項目とはなり得る事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

 

まぁだからとは言っても、

 

その能率性の特化だけを持ってして、

天才とは、定義しないのもまた、

普通でもあり、凡人的ではあるのでしょうが。

 

 

 

 

即ち、

 

能率性ってもの自体は、

 

環境や構造が存在しており、

 

その最低限のスキルを行使でき得る事が、

可能であれば、

 

その能率は、

 

時間をかければ、御体満足な人であれば、

誰でも出来るものとなるでしょうし、

そこに必要となるのは、

 

その最低限の能率スキルを行使する事によって、

 

アート性でもあり、ゲーム性のようなものを展開し、

各々の、裁量性を発揮する

もしくは、

 

裁量性を、育んで行く事に、

なってくるのでしょうね。

 

 

 

けれども、

ここで注意が必要となるのは、

 

勿論、

 

能率性に特化するって事は、

 

自分自身の限界を超えて行く事でもあり、

 

下手をすれば、

怪我をしたり、命の危険に晒される事になるものではありますが・・・・・・・、

 

アート性ってものも、

同じように、

 

それに特化してしまう事により、

 

怪我をしたり、命の危険に晒される事になるものだと言う見解が、

必要不可欠なものとはなる事でしょう・・・・・・。

 

 

 

 

だからが故に、

 

ボチボチペースで行える人とか、

マイペースで行える人って言うのも、

決して、

 

居場所があまり無いなんて事も無く、

 

その人のキャラクター性として、

 

役割分担にて、

 

色んな場所に、居場所ってものが、

存在しているものではあるのです。

 

 

 

 

まぁ、

 

上記で挙げた、

 

ボチボチペースとか、マイペースってものは、

結局は、

 

主観的、俯瞰的な判断でもあり、

 

誰しもにとってボチボチペースとか、

誰しもにとってマイペースってものは、

存在しない事でしょうし、

 

誰かのマイペースは、

また別の誰かにとっては、

 

ヌルく感じたり、

 

また別の誰かのマイペースは、

 

また別の誰かにとっては、

急いでるように感じたり・・・・・・・etc、

 

千差万別なものではあるでしょうから、

 

そこに共有が必要なのであれば、

 

必要最低限の、能率性の方にこそ、

共有が必要にはなってくるものなのでしょうね。

 

 

 

 

ま、だからとは言っても、

 

そのアート性でもあり、ゲーム性のようなものに、

 

より高度な、

 

自分でこそ、自分ならではを追求して行くと、

 

人を選別しざるを得なくなってくるものでしょうし、

 

それは結局は、

 

自分自身と近しい在り方の人達だけを、

選別する事にもなってくるものではありますね。

 

 

 

 

その選別されたコミュニティのようなものは、

結局は、

 

コアコミュニティとなりますね??

 

 

 

世間一般的なコミュニティってものは、

ただ単に、

 

人混みでもあり、

 

そこに点在する人々も、

在り方によって、選別された訳ではありませんから、

 

あらゆる在り方の人々が、

存在していて当たり前ではある事でしょう。

 

 

 

 

また、

上記のような、

 

在り方によって選別された人々による、

コアコミュニティってものは、

その、

 

能率性か、アート性によって、

 

似通った人々で、特化される事により、

その戦いが、激化して行く事にはなってくる事でもあるのです。

 

 

 

 

 

即ち、

そこは、

ある種の、

 

代理戦争的な、戦場となるのが常ではある事でしょうが、

 

役割分担する事によって、

それを、

 

本当の、暴力的な戦いにするのでは無く、

 

あくまでも、

 

代理的な戦いにする事が、

可能にはなって行くものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

 

まただからこそ、

 

個人的な視点においては、

 

同じような在り方の人って言うのは、

注意が必要でもあり、

同じような在り方の人と、

 

同じような事をしていては、

 

そこに待っているのは、

結局は、

 

本当の、暴力的な戦いしか無いのです。

 

 

 

同じような在り方の人々と、

関係が密の場合においては、

 

必ず、違いを産むって事が、

 

その関係性の調和には、必須になり、

 

また逆に、

 

違いが存在するような在り方の人々と、

関係が密の場合においては、

 

必ず、最低限の能率性を共有する事によって、

 

共有事項を作っておき、

尚且つ、

 

アート性を持ってして、

 

そのアート性によって、

代理戦争を、展開していけば良いものとはなるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

まぁ、

そのどちらの場合においても、

必要となるのは、

 

ゲーム性となるだろうし、

 

そのゲーム性が存在しなければ、

例え、

 

アート性だとしても、

 

「自分の意見でもあり、見解が正義であり、神である。」

 

と言う風な、

 

ある意味、

 

能率性よりも質(たち)が悪いような、

 

信仰の戦い=聖戦が、

展開されてしまい、

 

それは死ぬまで終わらないだけに、

要注意となってしまいガチではあるのでしょうね・・・・・・・(^^;)

 

 

 

 

即ち、

 

そのどちらの場合においても、

 

その戦いを、終結させる事ができ得るのは、

個人からの視点でもあり、

 

自分自身だけであると言う、

見解でもあり、

 

真の平和ってものもまた、

 

個人からの視点にこそ、存在しているものでありますから、

 

コミュニティ単位なら、

程々の平和で、充分でありますが、

 

逆に言えば、

 

真の平和を求めない代わりに・・・・・・・・・、

 

個人個人の平和を、侵害しない配慮ってものが、

求められるものとはなる事なのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

個人の平和が生きていれば、

 

コミュニティや、他人さえも、

変わりが効くって事ではありますが・・・・・・・・、

まぁ、

 

こう聞くと聞こえが悪いので言い換えますと・・・・・・(笑)、

 

その変わりが効く他人ってものは、

 

その個人の平和を侵害しないノウハウを持って、

変わりが効くものでもあり、

 

勿論、

 

そのノウハウの、オリジナルを提供者された人にとっても、

決して、

 

必要の無いノウハウでもあり、僕自身に、

なっているつもりなんて無くて、

 

むしろ、

 

進化でもあり、変化し続けているものではあるつもりです。

 

 

 

 

・・・・・・・が、

 

変わりが効いた時点で、

恐らく、

 

僕自身の追求、もしくは、その相手の追求自体が、

お互いの、個人の平和を、侵害したって事ではあるのでしょう。

 

 

 

 

それはそれで、

その当時も思っていましたが、

 

お互いが、独自に、追求し続ければ良いものでもあり、

 

ステージを突き抜ければ、

また、お互い、

 

歩みよる事も可能になるだろうし、

またまた、

 

そもそもとして、

 

変わりが効く相手がいるのであれば、

その人で良いとも、言えるものではある事なのです・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

 

執着を断ち切る為に、

距離を置く事もあるだろうし、

 

距離を置いて、自分の本質と向き合った上で、

結局は、

 

その執着と思っていたものが、

自分自身の一部だったと、

気付く事もあるのでしょうね。

 

 

 

 

まぁ、

自分自身の一部であれば、

 

変わりが効くのもまた、

当たり前ではあるでしょうが、

結局は、

 

それもまた、

 

同じような事を、

同じような在り方の人々と、

行っていたが故に、

自分自身の一部だと、気付く事が難しかったものでもあるだろうし、

 

逆に言えば、

 

在り方が違う人々と、

最低限の、能率を共有するという事が無く、

 

共有事項の少なさによって、

何処か、他人事のように、

物事を見ていたからこそ、

気付く=実感する事が、難しかったのではあるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

・・・・・・・し、

 

在り方が遠い人と、

共有事項がなくなっていけば、

 

関係性が途絶える事もまた、

当然ではあるのでしょうね・・・・・・・(笑)。

 

 

 

 

まぁ結局は、

 

同じような在り方の人って言うのは、

自分自身の本質と向き合う何かってものが、

存在していれば、

あまり気にする必要性も無く、

逆に、

 

違う在り方の人と、

戯れたければ、

 

仕事やビジネスとして、

最低限の能率性を、共有していけば良いものなのでしょう。

 

 

 

 

それらを踏まえてまとめてみると、

 

同じような在り方でもあり、

 

違いが存在する在り方でもあり、

 

そのどちらの場合においても、

 

能率性に特化してしまい、

 

個人の平和を侵害しガチになると待っているのは、

暴力的な、戦争でもあり、戦いとなってしまう事でしょう・・・・・・。

 

 

 

 

だからが故に、

 

ゲーム性ってものが、

重要となり、

 

その追求してしまう平和ってものは、

 

個人の視点でもあり、見解の中にこそ、

存在しているって事を認め、

 

他人のせいにしないって事が、

重要にはなるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

 

コミュニティ単位で、

 

「自分と同じ平和を、求めない。」って事でもありますし、

 

そこにフォーカスを向けても、

 

「どない仕様も無い。」って事実を、

直視すると同時に、

 

「自分自身の平和。」ってものは、

意外と簡単という事実もまた、

知っておきましょう・・・・・・!!

 

 

 

 

それは、

結局は、

 

今ここの感情でもあり、行動によって、

出来上がるものでもあり、

 

またそれは、

 

個人視点でもあり、個人的な見解ではありますが、

 

過去では無く、未来の展望として、

活用でき得るものとなるでしょうから。

 

 

 

 

また、

 

スコトーマは、気付くとスコトーマだった事自体を忘れガチってことは、

結局は、

 

前向きに未来視点を展開する為には、

無くてはならない要素でもあり、

 

これもまた、逆に言えば、

 

展開したく無い、未来視点が存在すれば、

 

スコトーマとしておけば良いものとも、

言えるものなのでしょう・・・・・・・・。

 

 

 

 

即ち、

 

情報を展開しない、掘り下げないって事でもあり、

 

その代わりに、

 

自分自身の本質に向き合う為の、

自分軸としての、習慣を、

持ち合わせておけば良いものではあるのです。

 

 

 

 

まぁ、

ゲーム性と言いますか・・・・・・・、

 

ゲームで言えば、

 

ネタバレ=モチベーションを失うこととなり、

やる意味さえも、無くなってくるものでもありますから、

 

能率目的で、先行きを調べる変わりに、

 

自分でこそ、自分ならではの、

プレイスタイルを考察したり、

 

自分でこそ、自分ならではの、

プレイスタイルを、表現しながら、

そのプレイ自体を、堪能するって事とはなるでしょうし、

 

そこには、

結局は、

 

最低限の能率を無視していると、

 

プレイが行き詰まって、

途中退場となってしまうだけに、

肌感覚が重要とはなってきますから・・・・・・・(^^)

 

 

 

 

まぁ、

途中退場となって、

 

やり直すのもまた、その人とゲームの相性ではあるでしょうが・・・・・・、

 

それは自由であるでしょうし、

 

そもそもとして、

 

やり直しが多ければ多い程、

 

行動の経費が高く嵩み、

執着によって、

 

「やらされている感。」が、強くなってしまいますから、

 

注意が必要で、

 

どちらかと言えば、

 

省エネで動いていけるように、

やり直しを回避出来るように・・・・・・、

 

最低限の能率ってものを、

嗅ぎ分ける嗅覚ってものもまた、

重要な要素にはなってくるのでしょうね。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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