Pete LinforthによるPixabayからの画像
どもども。
キンジです。
自分軸で生きて行く為には、
そもそもとして、
他人軸ってものが、必要不可欠でもあり、
またそもそもとして・・・・・・・、
自分、他人、ど〜こ〜じゃあ無く、
軸を持つって事自体が、大切な要素とはなるものではあります。
また、
だからこそ、
軸を保持して、役割を意識し、
そもそもとしての、
物事の機能性を踏まえた上、
もしくは、
機能性を踏まえて意識して行くからこそ、
そこに、
論理的思考が生まれる事によって、
その軸を中心として、
物事を、構造的、論理的に、
把握して行く事が可能になるのです。
それを指して、
全体像=ゲシュタルトを構築するとも言いますし、
構造理解を、可視化出来るようにするとも言いますね。
けれども、
その全体像=ゲシュタルトとか、
構造理解を可視化する為に、
文章化や、マインドマップのような、
図式化をしたとしても・・・・・・・、
その論理的、計算的に構造化された部分ってものは、
あくまでも、
その全体像=ゲシュタルトの骨組みの部分に過ぎなくて・・・・・・、
断っておきますが、
勿論、
その骨組みが存在しない事には、
その物事には、
そもそもとして、
発展性が見込めないものでもありますが、
その骨組みだけが全てじゃあ無いだろうし、
その骨組み=論理的部分だけを持って、
展開とか、発展して行こうって考えは、
勉強的な視点ではありますが・・・・・・、
これまたそもそもとして、
全ての行末を、
予め、知っているつもりとか、
実際に、知っている視野の元でしか成り立たない、
所謂、
逆算方式での、
解でもあり、答えの導き方とは言える事でしょう・・・・・・・。
その方法論の、
問題点を挙げるとすれば、
それは、何よりも、
「ツマラナイ。」って事が、挙げられると同時に、
その、
常人なら、
「ツマラナイ。」の一言で済むはずの、
その方法論を、
実際に、マッチョに行っていける人っていうのは・・・・・・、
そもそもとして、
「追い込まれている人。」、
もしくは、
「多額の負債を抱えている人。」といった様な・・・・・・、
足下ばかりに、フォーカスが当たっている人とは言える事でしょうし、
その「在り方」でもあり、
「演技性」ってものは、
人に伝染病の如く、感染(うつ)って行くって事もまた、
大事な要素とはなる事でしょう。
それ即ち、
「ツマラナイ。」って思いが、
広まって行く可能性があるって事でもあり、
それによってどんどん・・・・・・、
世の中と言うよりかは・・・・・・、
世界自体が、どんどん、
「つまらなくなる。」って事を、
指し表してしまうのです・・・・・・・!!
要するに、
世界とか、世界観ってものは、
個人個人から、
本来なら、描いて行く事が可能なものではありますが・・・・・、
まぁ、
それはそれだけの、
条件でもあり、環境を整えて行く事が、
前提に来るものでもあり、
可能性は存在していたとしても、
そもそもとして、
誰それお構いなしに、
おいそれと、実現出来うるものでは無いことは、
確かなものでもあり、
まぁ、実際的には、
何処かのコミュニティとか、
仕事の仲間等とは、
近しい世界とか、近しい世界観を、
保持しているって言うのが、
所謂、
一般的な見解とはなるものではあります。
・・・・・・・・が、
それは勿論、
他人軸的世界でもあり、
他人軸的世界観ではありますが、
これまたそもそも論として、
人と共有するのは、
その他人軸世界でもあり、
他人軸世界観が相応しいものでしょうし、
自分軸ってものは、
他人軸世界が、
「ツマラナイ。」ものと見えてしまっている現状を、
如何にして、
ゲシュタルト崩壊させて、崩したり、
その「つなら無さ。」を、
勝手知ったる、
自分の好きな事、好ましい事に置き換えて、
エンターテイメント性や、芸術性を見出して、
自分自身の、モチベーション管理の為や、
セルフエフィカシー(自己効力感)を発揮して、
それをマネジメントする為にこそ、
必要となるものでもあり・・・・・・・、
いきなり、
自分軸を掲げて見たところで、
それは唯の、
自分勝手とか、
ただ遊んでいるだけに、
見えてしまうのもまた、
「当たり前。」な事ではあるのです。
また、
だからこそ、
「ツマラナイ。」上に、
「邪魔になる。」って事が、
おき得る訳でして・・・・・・・、
ちょっと頭が回る人なら、
護りの意識でもある、
自我でもあり、理性を働かす事によって、
他人軸世界でもあり、
他人軸世界観を、
自分自身に上手く取り込む事によって、
その、
一見、
「ツマラナイ。」とか、
「邪魔になる。」だけのものを、
ちゃんとした機能的価値として、
ブランディングするのもまた、
「当たり前。」なものとはなっている事でしょう・・・・・・!!
即ち、
自分軸そのものを見てみると・・・・・・・、
そこには、
無敵どころか・・・・・・・、
紀元前の中国の、項羽と劉邦の時代のたとえでもある、
四面楚歌(しめんそか)の如く、
周りは敵だらけとなる事もまた、
一般的でもあり、
そこに、
大義名分でもある、他人軸ってものが、
存在しているのが、
「当たり前。」でもあり、
その大義名分を、保持しつつ、
キチンと、
大義がなくならない様に、
護り続けるからこそ、
その自分軸は、
「赦される。」ってだけでもあり・・・・・・・、
その自分軸が、
認められるって事自体が、
そもそもとして、
その保持している、
他人軸自体の、価値が良いとか、
その他人軸を共有する意志があるからこそ、
「認められる。」って事には、
なってくるのでしょう・・・・・・・!!
まぁ、
それもまた、
そもそもとして、
人からすれば、
その自分軸自体は、ど〜でも良いって思いも、
無きにしも非ずなのでしょうが・・・・・・・、
仕掛け側からすれば、
「そうは、問屋が卸さない。」って事なのでしょう・・・・・・・(苦笑)。
ガッチリと、
その他人軸と、
自分自身の自分軸を、
安易(やすやす)と、分離できないように・・・・・・、
がんじがらめに、
混ぜ合わせているのが、常でしょうし、
そうする事によって、
仕掛け側にとっても、
人間的な居場所を、確保するスペースが、
出来上がるってものではありますね・・・・・・・(笑)。
即ち、
自分軸で生きる為とは言いましたが・・・・・・・・、
実際的に言えば、
自分軸を、殺さないように、
延命させ続ける為には、
その自分軸を、
「如何にして、他人軸の中に混ぜ込ませるのか??」
って事も、大切な要素となるだろうし、
またそもそもとして、
いまここの、自分軸的な行動ってものは、
基本的には、
直ぐに死んでしまうような・・・・・・、
初心者がプレイする、
マリオブラザーズのマリオのような、死にゲー的でもあり・・・・・・・(笑)、
生まれては、直ぐ死んじゃって、
生まれては、直ぐ死んじゃってを、
繰り返し続けるものではあるのでしょう。
・・・・・・・が、
その直ぐ死んじゃうその時に、
厄介な事に、
他人軸を、
零戦特攻とか、爆破テロの如く、
見境無く巻き込んで、
一緒に、殺してしまう悪性をも、
持っている代物とも言えるのでしょうね・・・・・・・。
だからこそ、
自分、他人、ど〜こ〜は、
置いておいたとしても、
軸が大切でもあり、
その軸を保持して、
自分と他人を混ぜ合わせた上での、
機能的価値ってものを意識し、
その機能性を持ってして、
論理的かつ、構造的に、
その軸の行動を可視化する・・・・・・・・、
即ち、
文章化する、もしくは、構図化するって事が、
とてもとても、大切な要素とはなって行くものなのでしょう・・・・・・・!!
それは、
勿論、
上記で挙げた、
機能的価値を把握する事=行動の意図を、
意識に上がらせて、意識的に、理性的に行動する利点があり、
また、
決して、
行動的には、形には残らないような事、
もしくは、
行動的には、形には残って行かないような仕事であったとしても、
そのプロセスでもあり、
段取りといったような・・・・・・・、
実際には行ったけど、
目に見えては残らないし、解らない領域を、
世界観とか、芸術性、ゲーム性として、
応用・流用・活用する為にこそ、
役に立つ代物とはなるだろうし・・・・・・、
何よりも、
自分自身で、己の行動を振り返った上で、
頼もしい存在となりますし、
また、
未来視点としても、
他の何かに活用したり、
その細部の発展性を追求する事によって、
新たな楽しみの要素を、
増やして行く事にも、繋がる事でしょう・・・・・・・(^^)
まぁ、それもまた、
主観的世界、即ち、
自分の視点の為ではありますから・・・・・・・、
他人軸ってものもまた、
まともな理性のある人なら、
無視出来る存在じゃあ無いでしょうから、
その他人軸に自分軸を混ぜ合わせる、
もしくは、
自分軸を、他人軸使用に、
カスタマイズするって試みが必要となり、
基本的見解としては、
他人軸の部分こそ、
強調する事により、
人にシェアするって事が、
大事manブラザーズバンドではありませんが・・・・・・(笑)、
「それが〜一番大事〜。」
って事なのでしょう・・・・・・!!
・・・・・・・まぁ、
けれども、
その他人軸ってものもまた、
結局は、
機能的部分とはなるのでしょうが・・・・・・、
その機能的部分だけを、
視野においたとしても、
それもまた、
ただ単に、
「ツマラナイ。」ものと成り果てるだけに・・・・・・、
結果的には、
やっぱり、
色々、諸々、混ぜ合わせた上での、
がんじがらめの中の、
「確かな機能性。」となるのが、
常なのでしょうな・・・・・・(苦笑)。
それは即ち、
「本質を見抜く。」って事が、
大事になり、
それに自信が無い人は、
そもそもとして、
本質を踏まえた上での、
表現方法とか、演技方法ってものを、
身に付けて、
そのレベルを高めて行く事の方が、
確実性があるのでしょうね。
「本質を見抜く。」とは言いましても、
それはそもそもとして、
現時点での、
把握でき得る構造でもあり、論理性を持ってしての、
本質でもあり、
それが全てに関連してくる、
真の意味での本質ではありません。
・・・・・・・・が、
その、
例え、過程であったとしても、
仮初の本質であったとしても、
その本質を探り、嗅ぎ取って行くプロセスを無しにして、
決して、
真の意味での本質には、辿り着くことは不可能であったとしても、
真の意味での本質に近づく=賢くなって行くって事、
もしくは、
魂のステージを高めて行く方法論ってものは、
他には存在しないのでは無いでしょうか・・・・・・・・??
・・・・・・・・まぁ、
中には、
魂のステージが低いままで、
実際のステージが高くなる人も、
存在するでしょうし、
そのような人は、
他人軸では無く、
他力本願で、そのようなステージに立っている、
羨ましいって言うよりかは・・・・・・・(笑)、
恵まれた人ではあるのでしょうが、
結局は、
本質から遠すぎる人達=バカと付き合うには、
みんなそれぞれ、
許容範囲ってものがあるでしょうし、
もっと言えば、
例えば・・・・・・、
専門性が違った上での、
バカは許せるだろうけど、
同じ専門性とは言いませんが、
共有すべき、他人軸でもあり、
共有すべき、機能性の上でのバカは、
もう、
スラムダンクの、
安西先生が三井君に言った名言の、
「諦めたら、そこで試合終了だよ。」
んでは無く!!、
「諦めなければ、試合終了。」では無いでしょうか・・・・・・・??
そのようなバカさ加減ってものは、
ある意味、
不治の病の如く・・・・・・、
回避は出来ても、治る事が無いものなのでしょう・・・・・・・。
だがしかし、
幸いなのは、
人は多様性なものでもあり、
尚且つ、
この世界は、
多くの人に溢れているものでもあり、
我が国日本では、
一期一会(いちごいちえ)って四字熟語の如く、
出会いと別れを大切にする風習もあり、
その機能性の為にこそ、
人を入れ替えたり、循環させるものではありますし、
構造的に、
骨組みの肝となる部分の、
機能性ってものは、
人任せにする方がオカシイものでもあり、
専門性を持って自分自身か、
もしくは、専門家に任せるのが常でしょうが、
まぁ、
有志として、個人に任せるのが、
相応しい在り方でもあり、
相応しい演技でもあり、
相応しい役割とはなる事でしょう・・・・・・!!
それらを踏まえて、
実は、
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