馬関図絵 亀山八幡宮社務所の表紙 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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(馬関図絵 亀山八幡宮社務所より)



満干二島


長府沖合に浮ぶ伝説の島、沖が満珠、手前が干珠とは、瀬戸内海国立公園の指定である。ところが大正十五年の天然記念物のときは、これがあべこべ沖が干珠、手前が満珠である。


一体どうしたことかと、いろいろ論議はされるけれども、どちらにも確証がなく、未だそのままになって、話の種となっている。


忌宮の飛び地境内で、大正十四年二月天然記念に関する照会の時、お宮側は、沖が干珠とし、四町一反八畝二十四歩、満珠は七反四畝十九歩、関見台から満珠へは一、四二五米、干珠へ二、八七一米と書送った。ところがお宮も誤りと思ったのか、昭和十年ごろ、島名変更願いを県に出している。


その前古い話だが明治甘年ごろ、調査時に誤りがあったから土地台帳を訂正下さいと申請したこともあるが、県当局は、古くから異説が多く、訂正することが正しいという資料もないと突放ねてそのままになってしまった話題の島である。(阿月)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



長関街道


だんの浦長府間は、今でこそ電車が走り五〇キロ以上のスピードで自動車がすっとんでいるが、大正十年前後までは、巾四メートル位の海岸ぞいのデコボコ道だった。山からは大きな松の枝がのぞき、海峡の潮が足もとを洗う個所すらあった。


電車が開通する前の数年間は、後藤タクシーがタクシーを改造したような六人乗位の乗合バスを運行していたが、それまでの数年、この道を乗合馬車が走っていた。向き合せに八人位は乗れたろうか、ぎよ者台の横に積まれた馬のかいば桶が何とはなしにわびしかった。


だんの浦を出て前田村を通り豊浦郡長府町の二の宮前まで、一日三往復か五往復位だったろう、今のとうふ屋が使うようなラッパを鳴らしてパカパカと走った乗合馬車、あれから五十年近い今、ちっと目をつむって思う時、なつかしさというよりも、あのころの世の中が今よりずっとよかったように思われてしかたがない。(粟屋)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所)



壇之浦


赤間関の東端、源平の合戦や幕末の外艦砲撃の舞台として、わが国の歴史の一頁を飾る由緒の場所である。もともと漁家が二、三十軒あったが、幕末、台場築造の時、それらの人々を阿弥陀寺のはずれに移住させた。現在は壇之浦とみもすそ川の二つの地名に分かれてしまった。


この街道は、一方は海に臨み、美しい松並木の間に九州の山々を指呼の間に眺める、楽しい道であり、みもすそ川附近には茶店もあった。明治年間には、この道路下は団竹が茂り、細いうねうねとしたものであったが、その後松はすっかり切りはらわれ、道路は拡げられ、国道9号線として車がひしめいている。


街道の中ほど甲(かぶと)山の麓に、立石稲荷がある。ここに「平家千人塚」また前の海岸に大きい岩があるが、これは毎年旧の元旦に行われる「メカリ神事」の時、神官が烏帽子をおく所と云われ「えぼし岩」の名がついている。(阿月)


(馬関図絵 亀山八幡宮社務所より)


(彦島のけしきより)