下関の伝説 亀山八幡宮、壇之浦の伝説 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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壇之浦の伝説

 江戸の終りに出た「甲子夜話」(松浦静山)という本によると筑前の僧が上京したおり、三月十八日長門赤間関に停泊したときの話として…船頭どものいうことには、今日は何事もしゃべってはいけない、話しなどすると災難がかかる、という。なぜかと聞くと、今日は平家滅亡の日であるから、もし物語などすると必ず災いがある、といった。

見ると海上一面に霧がかかり、腕ろな中に何か人の形が多く現われた。これは平家の怨霊であるという。この怨霊は人声を聞けば、その船をひっくり返すので談話は絶対に禁物という。昔より十七、十八日の夜は必ずこの禁があり、又その十四、十五日ころから海上が荒れ海峡は物凄い時化となる。と載っている。

壇之浦は平家滅亡に関する伝説がいろいろあるが、ある本によると、平家滅亡の命日の三月二十四日白いかもめが激戦のあった海上を飛ぶと羽が抜けてバタバタと落ち水死すると書いてあり、また、ある本によると、壇之浦に出漁する時平家物語に話が及ぶとつり舟は必ずあともどりして少しも前へ進まぬ、とも書いてある。

また、壇之浦にある御裳川ついては、「筑紫紀行」(吉田重房)に「この川にて関の人々洗濯をするに、町家のは垢落ず、遊女の衣服は垢よく落とす」とあるのも興味深い。壇之浦の地名についてはすぐそのそばに聳える火の山とともに「下関地名考」に載っているが、火の山では王朝時代火の山合戦があったと伝えられている。

これは平家琵琶の物語で相当ながい語りものであるが、その内容を大略すれば、火の山の大将小丹の中将春元の一人姫に時の天子が想いをかけこれを得んためにさまざまな難題を押しつけ、遂にはここで合戦が行われる。という筋書きで、その難題の中には「焼織千尋打たぬ太鼓の鳴る太鼓」などがある。

「焼縄千尋」は千尋の細を積んでこれを焼いたものを受取れという意で、「打たん太鼓の鳴る太鼓」は太鼓の中に熊蜂を張りこめて打たないでも熊蜂の飛び廻る度に鳴るようにしたという。

(下関の伝説 亀山八幡宮)


立石稲荷の大石

壇之浦立石稲荷の下、国道を隔てた海の中に大きな石がある。これは立石稲荷の御神体といわれもともと源平合戦の際、平家が伏見稲荷の分身としてこれをここまで護ってきたが、壇之浦の戦に敗れて神霊はこの地に止って海雄の守護神となったという。

今から約五十五年前、この大石が放浪のため海中に転倒したことがあった。ところが、その日から壇之浦の町内には頻々として火災がおこり、荒天が続いて漁船が転覆した。町民は疑心暗鬼を生んで戦々競々の日夜か続いた。ある夜のこと、町内の老漁夫の夢枕に狐が現われ「この大石を早くおこさない以上天災はいつ迄も続くであろう」という恐しい御託宣があった。

町民はこれを非常におそれ畏み、早速人を雇って大石をおこすことにした。しかし折角おこした石は次々に浪のために倒された。町民は思案の結果、これは他町から人足を雇っての作業に神様がまだ怒っておられるのであろう、ということになった。それからは老いも若きも、男も女もとにかく町内の者が総がかりでこの作業にかかったところ、無雑作に大石が立ちあがった。と同時に、火災は止み、風も静まり、大漁が日々つづいた。

それ以来というものは立石稲荷は今日にいたるまで、町民一致の信仰を集め、日々参拝者があとを絶たない。


立石稲荷といえば旧幕時代の末こんな話があった。
長府にある若侍がいた。これがヒョンなことから稲荷町の遊女に馴染みが出来、とかく、夜更けてこっそり家に帰ることが多かった。

ところが壇之浦から前田、野久留米と夜道をひらって歩く時、必ずそのすぐうしろに美しい女がつき添って歩いた。若侍が足を止めれば、その女も足を止め急ぎ足で歩けば、女もそれに調子を合せて歩き、いつも一定の間隔をおいて男にピッタリくっついて歩いた。

それが毎日のように続くので、若侍はその女の態度を怪訝に感し、これはテッキリ魔性の術だと思った。ある夜のこと、長府の町にはいる少し手前で、くだんの若侍はやにわに女を一刀のもとに切り伏せた。勿論その女の姿は見えなかった。

しかし、そこには月明のもと、真黒い血が点々として流れているのをみた若侍は女の正体を見極めんものとその血の流を追って歩いた。血は野久留米から前田、壇之浦と街道に沿って流れていたが御裳川を渡って立石稲荷の前まで来ると急に右に曲って鳥居の下石段をくぐり神殿奥深くえ消えていった、という。

くだんの女が立石稲荷の狐の化身だとはわかるが、果して何がために女に化けて若侍のあとを尾行しなければならなかったか、そのわけは今もってはっきりわからない。

(下関の伝説 亀山八幡宮)


つかずの燈籠

これは明治にはいるちょっと前であるから、慶応年間の出来ごとである。当時下関には報国隊の隊士が相当いたが、たまたまその中の数名が酒を飲んだあげくいたづら気から阿弥陀寺町にあった灯籠を椋野の陣屋に運ぶことになった。

灯籠を横倒しにし、大八車に乗せて外浜町から赤間町、それから裏町の曲角を過ぎた時、力あまってその車を料亭吉信の表小格子にぶっつけた。隊士は家の者に詫びこともいわずそのまま車を走らせたので、納らないのが主人吉信、表へ飛び出て大声をはりあげ「このごくつぶし 」と怒鳴った。

血気にはやっている隊士は「何を横着な」と、やにわに車を止め、吉信を捕えて灯籠と一緒に括りつけた。車はとんとん奥小路を越えて走った。さすがの吉信も命怖さにようやく縄をほどき田園の中にころがり落るように逃げた。隊士は逃がしてなるものかとこれを追跡し、吉信は遂に一人の隊士のため無惨にも一刀をあびた。

隊士は歓声を挙げてまたひきつづき車を豊町の清水坂に運び、その牡丹にこれを据えた。ところが、その後その灯籠にいくら火をつけても、フッとかき消され、そればかりか、あたりにゾッと鬼気が漂った。それは正しく悶死した吉信の亡霊のシワザとされ、いつしかこの灯籠のことを「つかずの灯籠」というようになった。


この灯籠はもともと春帆楼下、魚安の近所に立っていたもので、市内観音崎町の問屋長府屋長左衛門(俗に「長々」といった)が供養のために建立したものらしい。阿月健治氏はそのことについて、次のようにいっている。

「長々がある暴風雨の朝、岸に打上げられた男を助け起して見るとしっかと握ったずっしり重い財布、そのころ長々はいささか左前で金の苦面に狂奔していた折柄、天の恵みとばかり取ろうとしたが硬直した指からはなれない。そこで長々は、すまぬがこの金貸してくれ、この金がないと今差当り困ることがある。この金を借りることが出来たならば恩返しに世人のために尽すから、といったところスルスルと財布がとれた。そこで長々はこの財布から出た三百両の金で借金を払い、旧に倍した問屋となった。そして供養のためあちこちへ灯籠を寄進したが、その内の一つがこの灯籠となった。」と。

また、昭和八年日和山に高杉晋作の銅像が建てられた時、晋作と報国隊との関係もあって、長い間牡丹畠に放置されていたこのつかずの灯籠は日和山、晋作像の向って右下に据え置かれ、盛大な供養祭と共に点灯式行われたことはまだ記憶に新らしいことである。

なお、料亭吉信の家は本行寺の二、三軒小路よりにあったが、吉信のあと新しく料理屋をはじめた夫婦が毎晩二階の寝室の枕元に高足駄をはいた吉信が行き来するのに悩まされ、遂に店を閉じたとある。また、昭和の六、七年ころその場所にコンバルというカフェーが出来たが、火災のため女給が裏の三階で三人焼死したことがある。いづれもむかしを知っている人達のあいだでは吉信の祟りではないかといっている。

(下関の伝説 亀山八幡宮)


耳なし芳一

今の赤間神宮がまだ阿弥陀寺というお寺であった時代、それも徳川の中頃のことである。阿弥陀寺に芳一という盲人ではあるが実によく琵琶を弾ずる法師がいた。芳一はその中でも特に「平家物語」は特意中の特意で、これを聞くもの誰しもが激憤し、号泣した。

あのことだった。芳一が床に入り、うとうとと眠りかけていると、枕元に異様な男が立っていた。ガバ、と跳ね起きて見るとそれは甲冑に身を纏い、眼光炯々とした見るからに逞しい武人であった。その男は云った。

聞けばそちは琵琶の名手とやら、今夜あるいとやんごとなき方を始め我々一同是非そちの琵琶をききたいとの所望、今よりすぐさま琵琶を携えてわしのあとにつづけ

芳一は誘われるままに引かれていったが、道は七まがり八まがりの廊下を辿り大広間に通された。居ならぶ武士等は威儀を正して待って居り、正面の御簾の中から~御苦労であった。今から壇の浦の合戦を吟奏せよりとの言癖があった。

うながされるままに、芳一はやおら調子を整へ全心全霊を打ち込んで「平家物語」を弾奏しはじめた。入神の芸と云うか、芳一は無我の境地に陶酔したが、厳然と居並んでいた武人たちはいつの間にか涙を流し、婦人たちは鳴咽の声さえ出して泣き崩れた。
こうして、全曲が終った。

夜は明けそめて芳一は寺に帰った。その夜のこと、同じ時刻、くだんの武人がまた芳一の部屋を訪ねてこれを誘い出した。そしてその明くる日もまた、その明くる日も、武人にうながされるままに芳一は憑かれた者のようにズルズルと武人にひきずられていった。

ある夜のことであった。芳一のしぐさが尋常でないと見た寺の僧侶たちは、こっそり芳一のあとをつけていったが途中芳一の姿が消えてしまった。しばらくして山の森の中で琵琶の音がけたたましく聞えてくる「アレあんな所に芳一が」と大急ぎで草をわけて近かよって見ると、真暗闇の中に芳一は御陵の前に異様な面持ちで端産し一心不乱に弾奏していた。

それはこの世の人とも思えぬ行相で、あたり一面は鬼火がゆれ、その凄惨な情景は二目とはみられなかった。僧侶は早速芳一を呼び起し、寺に連れ帰って、和尚の前に一部始終を報告した。和尚は思った。その武人は平家の怨霊である。

今のままにしておくと、芳一は必ずその怨霊のために殺されてしまうに違いない。和尚は早速芳一を真裸にして、体中に般若心経を黒ぐろと書きつづった。そして、和尚は芳一にこんど武人が来た時には決して声を出すな、動くな、返事をするな、と固く申し渡した。夜がきた。

例の通りいつもの武人が芳一の前に現われた。「芳一」 返事がない。「芳一芳一」重ねて呼べど、今夜に限って芳一の声もなければ、その姿も見あたらない。ところが闇の中に白い小さなるのがただ二つぼんやり浮いて見えた。それは芳一の耳であった。

武人はせめてもこれだけなりと持って帰ろうとつぶやきながら、その耳の一つ一つを冷い手でもぎ取っていづくともなく立ち去っていった。しばらくして和尚が芳一の部屋に入って見ると、そこには両耳をもぎとられ血だらけになって苦しんでいる芳一がいた。

和尚は『しまった』と思った。般若心経を両耳に書くことを和尚が忘れたからである。しかし片輪にこそなれ、経文の法力によって芳一の身が怨霊から助けられた、と云うことは、和尚にとってまた芳一にとっても嬉しいことであった。

勿論そのあくる夜からは一度も武人は現われなかった。それからの芳一は誰云うとなく「耳無芳一」と呼ばれ、よく寺につかえ、よく琵琶を研鑽し、その名は近郊に響きわたった、という。


この伝説は英国の文豪ラフカディオハーン (小泉八雲)が「臥遊奇談」の中の「琵琶秘曲泣幽鬼」を発表して以来全国に紹介されたが、この物語は藤村直氏の話によると、それより以前に「御伽厚化粧」の中の「赤関留幽鬼」にものっている。

「臥遊奇談」は夕散人の作で、天明二年(一八〇年前)に刊行され、「御伽厚化粧」は筆天斉の作で、享保十九年(二二八年前)に刊行されたものであるが、「臥遊奇談」では、芳一を呼びに来た人物は逞しい武人であるが、「御伽厚化粧」では十七、八の女性になっており、琵琶弾奏の場所も前者では御陵の前とあり、後者では二位殿の墓の前とある。

これら二冊の書物を始めとして、それ以外に口碑として現在まにで残っている芳一の伝説はさまざまである。「二位殿の墓」といえばすぐ「七盛塚」を思い出すが、これに就いては次の様な伝説がある。

それは天明年間(一八〇年前)の或る年のことであった。海上は日ごとに荒れ狂い、商船や漁夫の遭難が相ついでいつ止むとも分らなかった。壇之浦の漁民たちはこのただならぬ天災を平家の亡霊と結びつけ恨みをのんで海底深く沈んだ平家一門の祟りだと信じた。

それにしても、阿弥陀寺の裏山、紅石山のあちらの木かげ、こちらの草むらとバラバラに葬り建ててある数々の平家の墓が、ありし日を追想して淋しがっているに違いない。

その荒廃し点在している毒を一ヵ所に經め、京洛の方に向け直せば必らしず荒天もなくことであろう。と、こう決めた漁民たちは山をかき分けてさまざまの墓を今に据えたのであるが、それと同時に悪天候もピタリと静まった、という。

なお「七盛塚」の隣にある芳一堂は昭和三十二年建立されたもので、その中にある芳一像は山口県出身の彫刻家押田政夫氏の作。毎年七月十五日ここで芳一の怨霊祭が行なわれる。

(下関の伝説 亀山八幡宮)

(彦島のけしきより)