稲荷座炎上
豊前田の稲荷座は明治三十三年五月五日と、同じく三十四年の十二月三十日、それに三度目は大正四年の五月五日に焼けた。三度目に焼けたこの小屋は明治三十六年に出来たもので、入場人員は約千六百、むしろ東の裏町弁天座よりも堂々たるかまえだった。
三度目の火災の時はたまたま中村吉右衛門がここでふた開けの初日に当った。入場料は一等一円二十銭で、父は前々から約束していた親類の人と一マス借り切って早やばやと小屋に行った。焼ける少し前に来た菊五郎が一円五十銭、延若が襲名披露で来た時が八十銭であったから吉右衛門の入場料はそう安い方ではなかった。しかし、当日は西のヒイキ筋はもちろんのこと、東の花街からも人力車をつらねてひしめくように押しかけて小屋ははち切れるほどの入りをみせた。評判の演しものは「大蔵卿」と「日高川」であった。
芝居のハネたのは夜も相当ふけてからで、父が帰った時は私はもうぐっすり寝込んでいた。と、上の光明寺の鐘がけわしく夜空をついて鳴り始めた。火事だ!観劇の興奮もまださめやらぬ父はまた別の興奮で表情をこわばらせて表に飛び出た。寝床からはね起きて私も父について出た。
稲荷歴が燃えている。私は父が止めるのもきかず、一目散に稲荷座に走った。小屋の裏は打ち揚げていたが、表にはまだ火は回っていなかった。沢山なヤジ馬である。平藏館、広崎旅館、吉野館、長隣館…と、小屋のまわりの旅館という旅館は上を下への大盛ぎであった。
風は少しもなかった。しかし、火はみるみる表にうつり、火況は火柱となって天をこがした。消防車は早くからかけつけていたがどう消しようもなかった。そのうち小屋は押しつぶされるようにガサりと崩れ、火は地面をなめるようにはった。
あとからの語であるが、この火は道具方のたばこの不始末からで、それが引港に引火したものらしい。それも悪いことには小屋の者が全部引揚げたあとだったので、何一つ持ち出すことも出来ず、ただ、ヨロイ一個だけは助かったという。
座主は広崎半左衛門。のちの「大山劇場」戦後の「セントラル」「下関松竹」「下關日活」はこの稲荷座の後身といえる。
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
ホテル 再建
東南部の東郵便局は明治三十三年の建物、唐戸の元英国領事館はあの赤レンガの建物の上に「一九〇六」と書いてあるように明治三十九年に出来た。東南部の秋田商会は大正五年に建った。そうすると、最初の山陽ホテルは明治三十六年に出来たので東郵便局と領事館の中間に出来た洋館となる。
このホテルが一瞬にして焼け、今の姿の鉄筋三階建の本格的な洋館が出来たのが大正十三年の四月一日であった。つまり、焼失から再建まで約二ヵ年足らずを経過したわけであるが、その二カ年間にホテルを中心にしてどんな移り変りが駅の附近にあっただろうか。
駅から日和山への中腹東側に木造で鉄道 クラブというのがあったが、ホテルが焼けたあとは差し当りここをその仮営業所とした。その営業が始ったのが同じ年の九月廿日のことであった。宿泊の外人が見晴しのいいここの庭を逍遙したり、また、ここから駅への道を登り下りするのをよく私達は物珍しく立ち止って見た。
どお見ても四十くらいにはみえる赤ら顔のよく太った女が毎日のようにその庭の中を行きつ戻りつしているので、ある日私がホテルの大村さんという事務員の人に、あれは何処の国の人ですかと尋ねると、ドイツ人で今年二十才になったばかりの娘さんだよと答えたのでびっくりしたことがある。
ホテルが仮営業を始めてから間もなく、(九月廿七日)には駅の時計が全部電気時計に変った。珍らしいのでその取り付けを毎日のように見に行ったが、さて出来上ってみると再三止るのでハイカラも案外実用的じゃあないものだと笑った。明る十二年の四月、駅が大改築をした。
私はもともと机の前で勉強することが大嫌いのタチで、本を読む時にはいつも日和山か駅の一、二等待合室に行った。とくに、寒い冬の間は駅にはストーブがあったので、勉強もせず、一時間も二時間もストーブにかじりついていた。
ところがその駅がいよいよ大改築するというので、私は一時駅に出はいりすることを断念しなければならなかった。しかしようやく改装が出来上ったというので久々に待合室を覗いてみると、こんどは駅員から追い出された。
そのうち新しいホテルは着々出来上っていったが、どんなに立派なホテルが出来ても、また、それが立派であればある程、私達には新装された駅とともに、いよいよこのホテルとも縁遠いものになっていくだろうと思うと何かしら淋しかった。
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
山陽ホテル全焼
馬関駅が出来て翌々年、明治三十六年五月一日に駅の向って右側に山陽ホテルが出来た。このホテルが漏電で焼失したのが大正十一年七月二十六日であったから、その間約二十年間は内外知名士の往来はげしく国際的な宿舎として全国的に有名であった。
木造二階建でいかにも落着きがあり、とくに、ホテルの前庭に植わっていたヒマラヤ杉がまことに建物とうまくマッチしていた。私達の遊び場は「増富の広場」と「光明寺の墓場」以外にこの山陽ホテルの横庭があった。
この庭にはいつ行っても美しいいろいろの花が咲いていた。私達はその花を見に行くのが楽しみであった。ところがホテルが焼ける少し前のこと、この横庭を突然テニスコートにしたために、自然に私達はそこからしめ出しをくった。
その後、時々外からそのコートをのぞいてみると、テニスをしている人は外人のお客さんではなく、大抵ホテルの従業員だったのでちょっと腹が立った。
焼ける日は暑いさかりであったがおだやかな晩であった。私はホテルの向いの浜吉旅館の前でこの火事を見ていたがペンキ塗りの家だけにパチパチはじく音、メラメラとなめずるホノオの色にちょっと気持を悪くした。
それに火のほてりで私の顔はヤビヤビするほど痛んだ。それでも私は帰ろうともせずホテルが焼けくずれるまで動かなかった。そのうち火柱が大音響とともに崩れ落ちた。
テニスコートの上にも火がはった。ホテルの横庭から見はなされて間もない私ではあったが、それでもこのせいさんなコートの姿を見ると矢張りさびしかった。
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
火薬爆発
火薬が爆発したのが大正七年七月の二十六日であった。下関の駅構内…それも竹崎よりで貨車から艀船に積込中の火薬が大爆発した事件である。
むしむしする夜の終列車が下関駅をすべり出した直後だったのでたしか十二時前後のことだったろう。突然大爆音があがるかと思うと家中がビリビリッと 震えた。
家の者は寝巻のままでみんな外に飛び出た。しばらくは様子がわからないままにおろおろした気持につつまれたが、街を走り抜ける人の口から今竹崎で火薬が大爆発したという話がすぐに広がった。
私は近所の友達と二人でマッシグラに竹崎の踏切りへ走った。現場に近づくほど家の損害が目に見えてひどく、カワラが飛び、雨戸や障子が無茶苦茶に破れ、道端には木切れやブリキやその他何ともわからぬものが飛散していた。
巡査や兵隊が人がきをつくって線路内には一歩も入れなかった。死体か怪我人かが運ばれているのが見えた。何か怒声があがるが、何をいっているのかわからない。鉄道の人が走り回つている。どこへ行くのかわからない。
クレーンがはね飛んで屋根の上に上っている。人間の肉の塊りが壁にくっついている。野次馬の中からそんな話が出た。そのうち笹山に足が飛んでいるとだれかがいい出すとソレッとばかりに何十人かが一塊りになって笹山へ走った。
次に「日和山にも手が飛んでいる」と別のだれかがいい出したので、私達もツイ夢中でみんなと一緒で真くらな日和山へ上って行った。ただ人について行った。汗でびつしよりになった。結局私達二人はその「手」がどこに落ちていたのか見ずじまいで帰った。
この火薬の爆発で死傷者百人を出したとか、死者は同町の長泉寺に運ばれたとかいうことはそのあとで聞いた。 そして、この爆発事件で巡業中の市川左団次の汽車が立往生した話はそれからずっとのち、ある本で読んだ。
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
田中絹代のことなど
田中絹代が下関を去った話
田中絹代は入江町に住んでおり、父が亡くなったあとの生活に追われて母と一緒に大阪へ去ったのは彼女が六歳くらいのころだつたろう。
近所の人の温い同情もあったが、その母子が出発の際、私の家にあいさつに来た時、私の父と叔母が心ばかりの着物をひとまとめにして包んであげたことを覚えている。その後田中絹代は大阪の場末でビワ芝居に出ていると聞いた。
それから松竹に見出され、ばたばたスターとなり、母と一緒に晴れて帰関した時「田中絹代後援会」が出来たり、またその後彼女の母が一人で断髪に黒のコートに身を包んで墓参りに帰った時、私の家にも立寄って何かと父と話がはずんだことなど田中絹代に関してはいろいろの思い出がある。
大賀亭の別荘
これもまた今から考えてみると捨て難い思い出の一つであろう。たしか新町二丁目の山上に大賀常次郎という人が財にまかせて数奇をこらした庭園をつくったことがある。
山頂には大きな富士山をつくり、その所々に東洋趣味の建築をあしらい、また、それに付随したいろいろの古器物をそろえて、ちょっとそれは常人のさたとは思えなかった。
その中でも、とくに、水車のある便所までつくった彼の趣向はひと口に言えばよほどの変人としか受け取れなかったが、今の私から考えてみるとたしかに当時の人としては楽しい男だと思う。
趣味におぼれ、財を傾けた人はいつの世でもあるものだと人ごとならずつくづく考えさせられたものである。
田中絹代のことにしても、また、この大賀亭の別荘にしても、こんなことをいちいち書けば「火薬庫爆発事件」「長州鉄道のこと」「関東震災と下関駅」「午砲(ドン)の話」それに、これをもう少し淡い子供心に戻してみても「幻灯会」「かるめら」「青写真」など、思い出は次々にわいてくる。
しかし、これを皆んなここに書きならべてみたところで、果してこの「馬関少々昔咄」のねらいである大正時代の世相や風俗が完全に浮き彫り出来るかどう かは 疑問であろう。
たまたま、年末もいよいよ押し迫ったことだし、この辺で一応ペンをおくことにする。ともあれ「少々」「自淫伝」に墜したこの「昔咄」は書き終ってみて「ショウショウ」尻こそばゆいものがあった。(おわり)
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
あとがき
この「馬関少々昔咄」は、かつて朝日新聞下関版に掲載されたものに新たに十数項追補した。
たまたまこの拙文を「亀山叢書」に取りあげてもらった、竹中宮司に深甚の敬意を払うとともに、これが転載を快く承諾された朝日新聞社の御好意に対しても併せてここに感謝の意を表したい。
佐藤治
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)
(彦島のけしきより)