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ザルツブルクの聖ルペルト司教

2024-03-27 19:42:21 | 聖人伝
ザルツブルクの聖ルペルト司教                  記念日 3月 27日


 ザルツブルクのルペルトは、ドイツ人ではなくフランクの人で、フランスの王チルディック3世が、彼に宣教師としてババリアに行くことを勧めた時、ウォルムスの司教であった。
 チルディック王がルペルトに依頼したことは、ババリア公爵テオド2世を改宗させることであった。ルペルトは改宗した公爵と共に多くの人をキリスト教徒にした。当時の宣教師は異教の寺院を破壊したりしたが、ルペルトは彼らに倣わず、それらをキリスト教会として奉献して、レーゲンスブルクとアルテッティングに礼拝の場所を作った。教会として使用できるような建物のない場所には適当なキリスト教の教会を建てた。やがて信者の数が増加し、より多くの宣教師がフランコニアから到着した。
 ルペルトの妹のエラントルドは、現在ノンベルグと呼ばれている所に兄が建てた女子修道院の最初の院長となった。今日、メンチベルグと呼ばれている所にも一つの修道院が建てられた。
 ルペルトが自分の仕事の中心地として選んだのはジュバブムという古い町で、塩が発掘される谷のそばであった。この古代ローマの町と、それをとりまく田園は、テオド公爵がルペルトに与えたもので、塩坑を発掘させることでその町を活気づけることができるだろうと彼は悟って、塩の発掘を奨励した。これがザルツブルク(塩城)という市の名の由来と言われる。この市は後にドイツの首位大司教座の都市となった。
 ルペルトは715年頃、ザルツブルクで亡くなった。彼は非常に有名だったので、その死後、諸国においてそれぞれ自分の国の人だったと主張されたが、それはアイルランドで特に言われたことであった。
 ルペルトは、パノニアという遠方の異教の地まで布教に行ったという説もあるが、その証拠はない。彼は、今日バイエルンやオーストリアで崇敬され、ザルツブルク州と鉱山の保護の聖人とされている。






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