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故郷は遠くにありて・・・豊前国分寺史跡⑥

2021-09-14 | こころの旅

    〇豊前国分寺の歴史の歴史と遺される文化遺産
 豊前国分寺が整備された正確な時期については分かっていませんが、『続日本紀
(しょくにほんぎ)』の記述などから天平勝宝8年(756年)には主な建物が完成して
いたようです。その後宝亀年間(770~781年)までに七堂伽藍(塔・金堂・講堂
・中門・南門・食堂・僧坊)が整備され、以後この地には壮麗な建物群が立ち並び
仏教文化が花開いたものと思われます。
 平安時代に入り天台宗や山岳修行を採用して活発な活動を展開したようですが、
国衙の支援が滞りがちになった鎌倉時代以降、諸国の国分寺同様、その活動は衰退に
向かいました。ただ、法灯が絶えることはなく中世寺院として存続していたようですが
天正年間(1573~92)に戦国大名大友氏の戦火により伽藍はすべて焼失したと伝えら
れています。
 その後真言律僧・英賢により寺跡に草庵が構えられ、本尊に薬師如来を安置して真言
宗寺院として再興が図られました。英賢らは伽藍再興の勧進を豊前各地で行いましたが、
やがてこれに小倉藩の支援も加わって本格的な再建が進み、寛文6年(1666)本堂を
皮切りに鐘楼門・庫裡(1684年・85年)、弁天社(1687年)、護摩堂(1693年)など
新しい伽藍が少しずつ整備されてゆきました。
 めいじ29年(1896年)には宝塔(三重塔)が建立されて往事を偲ばせるに十分な復興
が完了、京都(みやこ)地域における名刹の面影を回復しました。昭和51年(1976年)
には現境内とその周辺が国の史跡に指定され、文化遺産としての価値も高く評価されました。
    〇豊前国分寺跡 伽藍配置想定図

 豊前国分寺には、1200年余の星霜を乗り越えて伝えられた貴重な文化遺産が幾つか遺され
ており、以下にそのうちの代表的なものをご紹介します。
    〇胎蔵界曼荼羅図(たいぞうかいまんだらず)

 237㎝×164㎝もある大型の仏画で絹本軸装(けんほんじくそう)。密教儀礼で使用され
るもので、仏の悟りの世界を図化したものとされます。14C後半(南北朝時代)頃の制作
とみられており福岡県内最古のものです。
    〇賢劫千仏図(けんこうせんぶつず)

胎蔵界曼荼羅とほぼ同規模の仏画で近世以前の制作とみられています。仏名会と呼ばれる
過去・現在・未来世の各世千仏、合わせて三千仏の名を唱え懺悔する法会に使われる仏画
で本来は3幅あったと見られますが、現在は現在世=賢劫千仏図のみ遺されます。



    

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