予備校の授業で小論文を書かされて、その文章の途中に「閑話休題」と書いた友人がいます。

 

大学の入試の小論文に「閑話休題」と書くのは極めてまずいのではないでしょうか。

 

もちろん講師は赤ペンでその上に二重線を引いていました。

 

彼も入蔵と同じく、遠藤周作氏の「狐狸庵閑話」のファンだったのかもしれません。

 

狐狸庵閑話の文章中に「閑話休題」という言葉が頻発します。

 

遠藤周作氏には入蔵も大きな影響を受けました。

 

「正しければ平気で人を傷つけてもいいのか」

 

という氏の言葉は今も入蔵の行動規範の一つになっています。

 

もう一つ氏の随筆で繰り返し述べられていた事項があります。

 

それは氏が過去の自分の行動を思い出して、「恥ずかしさにいたたまれなくなることがしばしばある」ということです。

 

入蔵も何十年前の小学生j時分のことを不意に思い出して、こういう気持ちになることも、よくあります。

 

正直、入蔵は「ほぼ毎日」というより「毎日」こういう気持ちになります。

 

しばしばこのブログにも書いてきた通り入蔵は本当に恥じ多い人生を歩んできたのです(このブログを「恥」というワードで検索すると、それこそ「恥ずかしいくらい」たくさんの記事がヒットします。恥ずかしい!)。

 

入蔵はこういう気持ちになるとき、本当に「穴があったら入りたい」と思いますし、「死にたい」と思うこともあります(諸般の事情により、入蔵は「死んでいる場合じゃない」ので実際には死ねません)。

 

でも、そのくらいの気持ちになることもあるということです。

 

入蔵と同じような気持ちかどうかはわかりませんが、最近、インターネットのインタビュー記事で若い芸能人の方が、同じように「恥ずかしい気持ちになる」ことがあるとおっしゃっていました。

 

皆さんはどうですか?

 

最近入蔵が気になるのは、こういった「恥の感覚」が無いとしか思えない人が以前より多くなったように思えることです。

 

もちろん、インターネット上の情報量が多くなっているのですから当然のことかもしれませんが、それでも入蔵には看過できないほどの多さです。

 

入蔵は「お金儲けが上手いだけの恥知らずな人間にはなりたくない」ですが、こういう感覚を持たない人が結構いるようです。

 

インターネットの恩恵を受けている人は、直接、間接ということを問わなければ、例えば日本では100%に近いのではないかと思います。

 

仮に日本人の人口を2020年の統計から約1億2千6百万人とすると、その0.1%は12万6千人になります。

 

インターネットの一つのメディアで12万6千人の視聴者(読者)を集めていると膨大な数のようにみえますが、国民人口をもとにするとわずか0.1%なのですね。

 

只、この場合の「割合」は実際にインターネットを直接に利用している人の数を分母にすべきでしょうから、この単純な計算にはさほど意味がないかもしれません。

 

割合はどうあれ、ビジネスとして利用する方にとっては十分な採算が見込める数でしょう。

 

前述の入蔵の「お金儲けが上手いだけの恥知らずな人間にはなりたくない」は入蔵の本心です。

 

でも、それは単に入蔵の思いにすぎませんし、「入蔵にはそのように思える人」とも付き合っていかなければならないのが、「社会というもの」でしょう。

 

残念には思いますが、上述のように、そういう方が人口の0.1%だとしても、大人から子供まで考えれば12万6千人もいるのですからね。

 

仕方無いのかもしれません。

 

昨日、入蔵は久しぶりに電車に乗りました。

 

本当に久しぶりでした。

 

座席に座ると、どうしても隣の乗客と「密」な間隔になるので入蔵は立っていました。

 

同じような感覚になるのでしょう、座席に座っている人も、まばらな状態で座っています。

 

ある駅で、乳母車に乗せた子供を連れた夫婦が乗ってきました。

 

入蔵が見たところたぶん30代の後半といったところでしょうか。

 

夫と思われる人は座席の端の手すり脇の座席にすぐに座りました。

 

その隣には20代前半と思われる若い女性が座っていました。

 

その女性は、夫がその席に座ると、その女性の隣に空いていた座席にスライドするように移動しました。

 

立って乳母車を支えている女性が座れるようにということだと思います。

 

立っていた女性は無言で、横にずれてくれた女性が目に入らなかったかのように座り、隣に座っている男性とすぐに話しだしました。

 

入蔵は「ありがとう」「どういたしまして」という会話、それがなくとも、せめて「会釈のやり取りぐらい」はあるものと思っていました。

 

入蔵のこの淡い期待は、現代では非常識なのでしょうか。

 

最近、入蔵は、狭い道で人に道を譲った時に「会釈も声掛けもない」ことを日常茶飯に経験するようになりました。

 

コロナ禍の渦中において声掛けがためらわれるとしても、軽く頭を下げたり、視線で挨拶を交わすことぐらいはできそうに思えるのですが。

 

「謝罪はするけれど、反省はしていない」としか思えない謝罪文を平気で出したり、謝罪すらしないどころか逆に「誹謗、中傷」という言葉を出してくる方がいます。

 

そういう方にも「割合は(たぶん)少なくとも」「たくさん」の「支持者」の方がいるのは事実です。

 

入蔵にとって「心地よく」ないからと言ってその事実を否定して、社会生活を営むのは実際上困難です。

 

現状では、前述のように入蔵はいたしかたないものと思うしかありません。

 

とても残念です。

 

入蔵の居住地では、今雨が降っています。

 

この雨を鬱陶しく思う人も、「恵」だと思う人もいるのですよね。

 

コロナ禍にあっても、日常生活をすがすがしい気持ちで送りたいものです。

 

入蔵も雨を「恵」と思える休日を過ごしたいです。

 

では、また(^O^)/

 

入蔵は子供のころに本で読んだ「自分で死ぬと天国に行けなくなる」という言葉を信じています。

人それぞれの事情があるので、ほかの人については、コメントはできませんが、入蔵はそう思っています。

入蔵の行状から、これに関係なく天国に行けないかもしれませんが、入蔵は死んで天国に行けないと困るのです。

天国にいる亡妻に会いたいからです。

亡妻に面会を拒否される可能性が、実は「大」だとは思うのですが、天国の隅っこからでも、亡妻の元気(?)な姿が見たいです。