カズオ・イシグロの著書「クララとお日さま」を読んだ話をしたら、三女が「日の名残り」を貸してくれた。全く内容を知らずに読み始めたが、すぐに夢中になり、一日で読み終えた。
 
2作とも土屋政雄氏の翻訳。原文も素晴らしいのだろうが、この翻訳の文章が本当に自然で、分かりやすく、丁寧で、大好きである。
 
この物語は、ダーリントン・ホールという200年の歴史のあるお屋敷で長年品格ある執事として働いてきたスティーブンスが、現在の主人ファラディ氏から、自分の留守中にどこかへドライブしてきたらと提案され、初めてのドライブ旅行をしながら、前主人ダーリントン卿に仕えていた2つの大戦の間の期間、1920年代から1930年代の回想をしていくというもの。

細切れの回想が続くうちに、だんだんその時代の生活、政治、歴史などが輪郭を整えてくる。格式のある屋敷、尊敬のできる主人、何度も屋敷で催された重要な会議、自分が非の打ちどころのない執事として立ち会ったという誇り・・・
 
格式ある話の間に、ダーリントン卿の友人サー・ディビッド・カーディナルの息子レジナルドに、結婚前に生命の神秘を教えてほしいと頼まれたり、現在のアメリカ人の主人に合わせて、なんとかアメリカ的ジョークが言えるように練習したりという、ユーモラスな話も入り交じる。
 
執事の小説と言えばP・G・ウッドハウスのジーヴスを思い出す。この本が面白くて、森村たまき氏の翻訳で出版されている物は殆ど読んだ。この執事ジーヴスは本当に要領が良くて、賢くて、時に悪知恵すら働かすことができる。
 
この結末はどうなるのだろう、と心配になる程次々と不幸な偶然とヘマが重なって追い詰められる主人バーディを、巧みに救いだす。
 
紳士付きの執事だったジーヴスと比べれば、スティーブンスは正統派の執事というべきか。かってこの屋敷で会議やパーティが開かれた時には、お客様のお供でやってきた執事や従者たちと召使部屋で情報を交換し、「偉大な執事とは何か」「品格とは何か」を論じ合っていたという。
 
そんな輝かしくも懐かしい思い出を胸に、今は大きく変化した戦後を生きているスティーブンス。
 
華々しい思い出の中では力強い彼が、旅行の最後には、慕われていたのに気付かなかった女中頭ミス・ケントン(今ではミセス・ベン)の愛情を取り戻すこともできず、長年慕い仕えてきた前主人ダーリントン卿が客観的には対独協力者として批判を浴び、戦後は失意のうちに亡くなったという悲しい事実に向かい合う。
 
意気揚々とした若き時代の話から、最後のこの意気消沈した突然の展開にちょっと驚かされた。そして時代の流れに翻弄されながら生きて行かなくてはならない人間の宿命を感じた。
 
旅行の最後の夜、ウェイマスの桟橋の色つき電球が点燈するのを見に集まった人々に混じり、ベンチに腰かけてミス・ケントンとの再会の思い出に慕っていたスティーブンス。偶然隣に座って話しかけてきた男は、3年前まで近くの小さいお屋敷で執事をしていたが、下僕上がりで執事の専門知識はなかったとあっけらかんと話す。
 
しばらく自分の輝かしい思い出話を語っていたスティーブンスは、やがて自分はダーリントン卿がすべてで、持てる力を振り絞って使えたので、今はもう何も残っていないと自分の衰えに涙するのだった。
 
現実的で気のいい男は言う。「いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。」「人生楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を延ばして、のんびりするのさ。」と。
 
これがタイトルになっているのだろうか?私が最近出会う本が、私と同世代が主役のものばかりなのは偶然だろうか?本が私を励ましてくれているのだろうか?
 

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