マジで今日も届かないのか!?
思いつつ昼食に出る前に、
それでもと事務に向かいましたら……、
届いていました!!

という訳で、
嵐の勢いで仕分けし、
すでに作成済みの説明書と共に始末をつけ、
午後1時を前に職場を出ました。
 明日も午前中は待機ですが、
 午後は昼寝もできました。
 まあまあと思っておきます。



1958年ピューリッツァー賞を受賞した『無垢の信頼』です。
1958年という時代を思いますと、
人種の違いなど何の影も落とさない
子どもの無垢な信頼と
それに応える警察官のしっかりと
その瞳を受け止める姿は、
人々をはっとさせただろうと思います。


差別も偏見も
この無垢な信頼には無力です。
わたしたちは
どうありたかったか
それを伝える一枚でした。



帰途の車中で、
デーブ・スペクターさんが
連邦会議議事堂襲撃にまつわる、
現代の『無垢の信頼』のお話をなさっていました。

検索して記事を探したのですが
見つからず
うろ覚えではありますが、
幼い少女がドアに挟まれて怪我をした警察官にお見舞いのお手紙を書かれたというものでした。



その少女の手紙の一言一言に、
はっとさせられました。

 暴力はいけないことです。
 それはしてはいけないことです。
 傷ついた人は心も傷つくものです。
 その傷の回復を祈ることは、
 人として当然のことです。


人としてあたりまえのことを、
子どもたちは知っていて、
大人たちは忘れてしまう。

そういうことがあるものだと
思いました。



アメリカを思いますとき、
昨夜は暗いものを描いていました。
既に分断は暴力をも辞さぬものとなり、
しっかりと国の半分を覆い尽くしている。

何を見るにも、
どちらに軸足を置くかで見方が決まり、
それは揺らがない。


それは、
大人になってしまった人間たちに見えるもの。
でも、
暴力をその目にしたとき、
純粋に、
これはいけないことだと驚き悲しむ子どもの目がございました。


分断したどちらが正しく、
どちらが間違っていると決めることはできませんが、
あってはならぬことはあってはならない。
それを見極める無垢な子どもの信頼に応える大人であろうとすること。
それは、
どの大人の中にもある思いではないかと思います。


ちらりと耳にした少女のお話は、
そんな単純で、
とても簡単な答えをくれるものでした。

簡単ですが、
難しいものであることは、
『無垢の信頼』が人々の心をゆさぶった1958年から今日までも根強く残る差別と偏見を見れば、
明らかなことです。

ですが、
人がどうありたいか
どうあるべきと思っているかを訴える作品は、
力をもつものでした。

たとえば、
この少女の手紙が多くの人の心を動かしたように、
人がどうありたいかから、
何かが始まることを願います。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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