家の中でも寒くて鼻先が冷たいので、近ごろは

昼間から電気ストーブを点けている。

ただし1本だけ。

1本線でも暖かいのはやはりプチプチのお陰かな。

 

 

 

某日。

ずっと東京で暮らしてこられたかたが、

仕事のかたをつけて、ご主人と共にご自身の

故郷に戻って、妹さんの家の隣に家を建てて

日々を過ごされている記事に目が留まった。

 

色んな物事がドラスティックに、且つスピーディに

変化・進化していた昭和の高度成長期時代でしたので、

私自身、自分の生きている間にここまで変化するとは

信じられない程の変化を見て来ました。

 

だからこそ、昔の暮らしぶりがどうだったのか、

私達日本人はどんな風に工夫してくらしていたのか、

今になって知りたいと思うようになりました。

 

でも、残念な事にもう証人が殆どいない。

祖母にでも訊いておけば良かったのですが、その祖母は

私が小学4年の時には亡くなってしまっているので、

もっと昔の話を色々と訊いておくべきだったと悔やまれます。

 

その昔の事、亡き母の子供時代に父親(私にとって祖父)が

読んで聞かせてくれたという新聞の記事で、とある母親が

「日光二荒山神社」に、自分の幼い子供たち(兄と妹)を

捨てて一人下山し、警察に自首したそうなのですが、

警察が捜索に行くと、小さい兄妹は凍死していたそうです。

 

そして妹の小さな手には、まだ幼い兄が自分の足袋を

脱いで履かせてやっていたという事でした。

 

この話をする度、妹は泣きます。

私ですら涙が出ます。

そのクソ母親は、その後どうなったんだろう?

 

安心しなさい、妹よ、お姉ちゃんは自分の足袋を

アンタの手に履かせてやるからね。

そう言うと、「うん、宜しく頼むよ~」と妹。

 

ところで「日光二荒山神社」には、その子供たちを

供養した小さなお地蔵さんがあるそうです。

 

ずっと前に、私の高校時代の同級生が二荒山神社を

訪ねた際、昔のそんな事件などまったく知らずに、

小さなお地蔵さんが可愛いと思って写真を撮って

来たとかで、私の母に見せたのだそうです。

 

母はきっと昔の新聞記事の事を思い出して、

その写真を焼き増しして欲しいと言ったのでしょう。

これがその写真です。

妹が持っていました。

 

朝は芋天と葱のかき揚げで天丼もどき、吉田拓郎「旅の宿」の事、そして戦前に「日光二荒山神社」に捨てられて死んだ幼いきょうだいの話_b0399777_18035086.jpg

 

その同級生は、千葉の大学を卒業後、地元に戻って

就職していたのですが、私の母にお花を習っていたので

毎週うちに来ていたのです。

 

彼女は控えめで愛らしくてお嬢さんらしくて、

母の大のお気に入りでした。

 

母は愛らしく品の良いお嬢様タイプの女の子が好きです。

 

しかし母の長女(私の事です)ときたら、お洒落も化粧も

しないばかりか、子供の頃から生意気で勝気で、

お嬢さんらしいところなど微塵もなくて、プロレタリアの

代表みたいで、母はさぞかし失望していただろうと思います。

 

可愛げのない私が母に気に入られるには、学校の成績で

トップになる以外は無かったのです。

それは女の子にとっては色々と複雑なものがありまして・・・

 

兎に角、私は誰が見ても「まあ可愛いお嬢さん」と言われる

ような娘では無かったという事実。

 

しかし母の次女にして末娘(妹の事です)は、まさに母の

求める理想のお嬢さんタイプのまま、どこに行っても

「可愛い、可愛い」と言われる女の子(もはや老境ですが)に

育ってくれたので、その事だけとってみても妹は母親孝行でした。

 

いまだに同級生の男の子(既にジジイ)たちにとって、

妹はマドンナなんですから。

 

きっと男どもは夢を見ていたいのでしょう。

自分たちの嫁さんはとうにオバサンからオバアサンになって

しまったけれど、マドンナの妹はいつまでも可愛いままで、

「俺たちの青春時代は失われていないぞ」という儚い夢を

見させてくれる存在なのでしょう。

 

今更路線の変更は出来ませんし、わたしはこのまま行きますけどね。

 

 

 

 

 

 


 

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