「人はね、生まれて来るときに神様と寿命を約束して生まれて来るんだよ。自分ではどうこうすることもできないんだよ」
祖母が口癖のようによく言ってたんですよね。
当時は「ふ~ん、そんなもんなのかもな」程度で流して聞いていたのですが、コントロールすることができないのが「寿命」だけではなく「人生で起きるすべての事」だったとしたら、きっと祖母に全身全霊をもって反発していたと思います。
人には自由意志がある。自分で選択できる。そしてその結果によって人生が創り上げられていくことはまぎれもない事実なはずです。
自由を愛する者にとっての最凶最悪の敵は何か?それは「すべてが決まっていて自分ではコントロールできない」でしょう。
そもそも、才能も根性もなく社会不適合者でポンコツの自分でも、世界は内側の投影なのだから内側(信念・感情・思考)をコントロールすることで外側を変えて願いを叶えることができるんだ、ということに希望を持って自己啓発や引き寄せを勉強して来たわけです。
それなのに、外側(現実)がコントロールできないのと同じで、そもそも内側もコントロールなんてできないんだよと言われたらどうでしょう。
もしそれが真実だとしたら、詰みです。もう絶望しかありません。それは究極の不自由にほかならないわけですから。
ところが時を経て、「人生で起きることは最初からすべてが決まっていてコントロールなどできない」ということが真実だとわかったとき僕が感じたのは、絶望なんかではなく未だかつて味わったことのないような涙が溢れるような"歓喜"でした。
外側(現実)がコントロールできないのと同じで、内側もコントロールできないのだから、
何かネガティブなことを考えが湧いて来たとしても、それは自分のせいではないということになります。「あぁまたネガティブなこと考えてしまった…」と反省したとしても、それも勝手に起きたことで自分のせいではありません。
失敗を恐れる必要もなくなります。どうせ失敗するときはします。それも自分のせいではありません。
逆に何か成し遂げたとしても、それは自分の手柄ではありませんね?自分が頑張ったからでも凄いからでもなくそれも勝手に起きたことです。
改善の必要があるといままで努力して来たことは、自分にはコントロール外の出来事だったのです。すべて仕方がなかったことだったのです。
そしてこれが自分に当てはまるのだから、もちろん他人にも当てはまりますよね?憎たらしい相手も自分と同じだったんです。あの人のあの行為は仕方がなかったんです。
世の中の悲しいニュースを見れば、引き寄せの法則だけでは説明に苦しいことがわかると思います。確かに被害者はそれを引き寄せるような波動を放っていたのかもしれません。でもその思考や感情は、私(エゴ)のプログラミング(DNA+環境)による反応であり、自分でコントロールできるものではないのです。
すべては自分ではコントロール外の出来事であり、勝手に起きたこと。
改善の余地はありません。お手上げ状態です。
唯一できることは、起きてくることをあるがままに受け容れることくらいでしょうか。
この事実を受け容れることができるようになると、罪悪感も、無価値感も、誇り(驕り)も、憎しみも、妬みも感じる必要がなくなり、もう自分も他人も責めることができなくなりました。
それはまさに"解放"でした。究極の自由にほかならなかったのです。
では、自分じゃないとしたらコントロールしているのはいったい誰なんでしょうか?
その何かとは薄々お気づきでしょうが、宇宙、神、仏、All That Is、サムシンググレイトなど呼び方は何でもいいですが、本当のわたしです。
その偉大なる何かが間違いをするはずがありませんから、最初から安心しておまかせしていればよかったんです。あなたが何も知らなかった赤ちゃんの頃に現実を創り上げていた存在に。自分の力では絶対にできなかったであろう奇跡をこのブログを読んでる方なら1つや2つ体験されているでしょう。その人智を超えた奇跡を見せてくれた存在に。
自由意志はない。
なぜそう言えるかというと、私=エゴの意志とされるもの(思考とか感情とか)はDNAと環境で形成されているただの反射的な反応であるし、そもそもその私というものが存在しないからですね。
物事が観測されるには、観る者(観測者)と観られるモノ(対象物)が必要です。(=すべては1つ、1つはすべて)
私は自分のことを観察者だと勘違いしていますが、私は(肉体も思考も感情も)観測できるので観察者ではなく対象物です。
私を観ている観測者が絶対にどこかにいます。
その観測者・絶対的な主体こそが本当のわたしです。
また熟睡しているとき世界は存在しますか?しないですよね。目が覚めて起きた(観察が始まった)とき、世界は現れるのではないでしょうか。(=色即是空、空即是色)
行為者はいないのだから、世界はただ起こっているだけです。絶対的な主体性がただ在るだけ。これは寝て夢を見ているときと同じようなことです。夢の中の主体は誰でしょうか?
観測者ではなく観られる対象物である私が、物事をコントロールなどできますかね?自由意志なんて持てますかね?不可能です。あなたが今観ているスマホに、あなたの人生をコントロールする力がないのと同じです。
「いや違う!私は自分の意志でいま手を挙げられるし、夢は努力して頑張ったから達成できたんだ!」と思うかもしれません。それは私と同化していて、自分でやったと勘違いしてるだけですよね。対象物は主体ではないので。
またこの物理的現実は4次元なので時間という枠組みの中でしか考えられませんが、本当のわたしの視点では時間は存在しません。過去・現在・未来が同時に存在します。すべてが同時に存在しているなら、それはすべて決まっているということになります。すでに撮り終わった映画と同じです。
そしてこれらのことが理解されると、
"私が世界を創っているのではなく、
わたしこそが世界そのものだった"
という認識になります。
わたし=世界なので、分離感も不足感もありません。世界にあるモノすべてがわたしなのですから。
「確かに世界にはお金も、好きなイケメン俳優も存在している。でもそれは”僕の”お金ではないし、”私の”彼氏ではないですよね?」
いえ、わたしのです。わたし=世界なんですから。
世界と分離さえしなければ文字通りあなたの望むものがすでにあるはずです。あとはどれを選ぶのかだけです。在るものを使ってどう経験するかが人生です。
この認識になってはじめて引き寄せの法則は真の効力を発揮するようになります。
すべてすでに在るのだから、いますぐ実現してしまえばいいだけです。というか、もうすでに叶っています。
「いま叶っていないから、法則やメソッドを駆使して願いを叶える」コレがおかしいです。
引き寄せの法則は間違いではないですが、こう(不足)設定してしまうことですべてが間違いになります。
「いやいや、みんな叶ってないから叶えて来ているし、あなただってそうだったでしょ?」と思うかもしれませんが、
それは、すべて決まっていたことが現象化しただけであり、叶ったり叶わなかったりの叶った方であり、あらかじめ決まっていたことのエゴによる単なる辻褄合わせにすぎません。
「~がない」というの絶対に不可能なんですよ。
試しに「~がない」を探してみてください。
「ある」の中に「~がない」があるんです。
あるからないと言えるわけです。
まさに顔も壺も同時に存在するルビンの壺のようなものです。
願いはいますぐ叶えることができます。でも現象化するかはまた別です。
現象化はコントロールすることはできません。コントロールしているのは私ではなくて本当のわたしだからです。
私に望みを叶える力はなく、本当のわたしだけが選択する力を持っています。私は本当のわたしの操り人形のようなものです。
(ちなみに僕は「ふざけんなよ!こんなこと望んでねぇんだよ!本当のわたしっていったい誰なんだよ!出て来いや!殴ってやるから」と何度思ったかわかりません)
実現と現象化を一緒にしてゴチャゴチャにしてしまうから訳がわからなくなります。
願いはすぐに実現して、現象化は諦めてしまえばいいだけです。
それはつまり内側にのみ真実を見出すということ。
あなたは引き寄せの法則を知っているのだからそれで何の問題もないはずです。
現象化さえ諦めれば選択はまさに自由自在です。"無限"です。
本当に奇跡なんてフツー!なのですよ。
現象化は、あくまでもエゴ側が納得するためのプロセスに過ぎない、と気づければ言ってる意味がわかると思います。
内側で実現して、現象化を諦めることは妄想ではありません。
現象化を諦めるとは、それが現象化しようがしまいがどっちでもいい状態です。なぜならもう叶えちゃったことだから。
「内側で叶えたんだから絶対現象化するはずだ。まだかなまだかな~」はズレています。現象に自分を満たしてもらおうと思っている間は現象次第で自らの幸せが左右されることになり、いつまでも不自由です。
どうして現象化しないと叶ったと認められないんでしょうか?もう実現しているのに。
ココは僕も長い間引っかかったところですが、いまとなってはなぜわからなかったのか思い出せないくらいです。そっちの方がむしろ謎です。
現象化を達成(叶った)の基準にしなければいいだけだったんですよね。
これで「叶わない叶わない」「何でだ何でだ」の悩みは一発で消えるはずです。
きっと私(エゴ)にとっては今すぐ叶ってしまったら困るからなんでしょうね、そうしてたのは。
結局は、現象化のために私がすることは強かろうが弱かろうがすべて抵抗にしかならないことを知るからこそ自由なのです。だから何もしないことが1番です。
これは何かをすることは抵抗になるから現象化しないという意味ではなくて、「ない」という幻の不足に囚われて苦しむのは無駄でもったいないという意味です。
わたしとは何か?
自由意志はない
それに気づいたとして何になるの?
と思ったかもしれませんが、このように世界はひっくり返るのですよ。
私(エゴ)との同一化が生きるうえでのすべての苦しみの原因なのだから、私は対象物であり幻想であり、本当のわたしはそれではない、と気づいてしまったらそれでもなお苦しむことはできますかね?
死の怖れも、本当のわたしは永遠不滅で不変であり、人生はすべて完璧に決まっている、そもそも生まれたこともなければ死ぬこともなかった、1つの夢から覚めるだけとわかるのでどこかへ行ってしまいます。
願いが叶わない、という苦しみも、もう叶ってるとわかるので苦しむことは不可能になります。
お金がない、生活できない、という怖れも、ココにすべてがあるのだから不足感はなくなりどこかへ行ってしまします。
嫉妬という苦しみも、嫉妬してるその人の持っているものはわたしのもの、ということがわかるので嫉妬することは不可能になります。
承認欲求の苦しみも、わたししかいない中で必死に自分からの承認を求めていたのだと気づくのでバカらしくなりどこかへ行ってしまいます。
いわゆる仏教の四苦八苦もどこかへ行ってしまうので、信じる信じないではなく自分で確かめてみてください。
生→生まれる場所、条件を選べない苦しみ
老→老いる苦しみ
病→病気になる苦しみ
死→死ぬことへの苦しみ
愛別離苦→愛する人と必ず分かれるときが来る苦しみ
怨憎会苦→嫌な相手と会うことが避けられない苦しみ
求不得苦→望むものが得られない苦しみ
五蘊盛苦→肉体や精神をコントロールできない苦しみ
苦しみと同一化しているときだけそれらを感じることができます。
苦しみがないなんて人生つまらない、という人も、同化すれば即座に戻って来て引き続きちゃんと体験できるので心配ご無用です(苦しみを乗り越えて目標を達成するからこそ人生は素晴らしいんだ、タイプの人も同様)。
起こっているのを観ているのが本当のわたしです。
起こっているすべてを受け容れたときエゴの霧が晴れ本当の自由が見えます。
苦しみから解放され悩むこともない、
"不惑"で生きることができます。
このように人生を生きるうえで必須ではないかもしれませんが、わたしとは何か?自由意志はないということがわかると人生はとてもシンプルになります。
たとえここまで書いてあることがチンプンカンプンでわからなくても、まったく問題はありません。
ただ、
たとえエゴがこんなこと望んでいないということが起きても、たとえこれまでもこれからもすべてが決まっていたとしても、エゴにはわからないけれどもこれこそが本当のわたしが望んだことなのだ
と決めて進めば本当のわたしと調和した道を歩いていることになるのでOKです。
もし、わかることがあなたの人生で決まっているなら、必ず導かれることになります。もしわからないまま人生が終わったとしてもそれは必要がなかったということなので何の問題ありませんしね。
わたしとは何か?
自由意志はない(すべて決まっている)
は、努力を否定するものでもなければ、何をしても無駄ということでもなければ、叶えられなかった負け犬の遠吠えでもありません。
努力したければすればいいし、したくなければしなければいい。したくないけどしないとなと思うならばすればいい。金持ちになりたければなればいいし、目の前のことで満足できる生活が好きならそれでいい。完全に自由です。
山の頂上まで麓から歩いて登るのが好きな人もいれば、途中までロープウェイで行く人もいれば、ヘリコプターで一気に頂上まで行くのが好きな人もいます。
生まれてから死ぬまですべて決まっている中で、どう在りたいのか?それを己に問い実現していくだけです。
ただし結果(現象化)についてはコントロールできないというだけで、完全に自由です。
「たとえすべて決まっているとしても関係ない。私は成長を求める続けるんだ」と思うのならば、それはあなた(私)の意志であり、同時に本当のわたしの意志です。
私には自由意志はないけれど、それが確かにあるように感じられる。
そしてそれは本当のわたしの意志と一致する。
すべては本当のわたしが望んだことだった。
だから、思う存分やりたいことをやればいいんですね。
"すべて完璧に決まっていて、完全に自由"
私にとってコレ以上の幸せ、安堵とエクスタシーは他にないでしょう。まさに究極の自由でした。
わたしとは何か?がわかったとしても、これから先起きてくることは何も変わりません。成功-失敗、健康-病気、嬉しい-悲しい、相変わらず人生の浮き沈みは続いていくでしょう。好みや癖も前と変わらないでしょう。
「こんなこと絶対に望んでいない!」というエゴにとっては不幸以外の何物でもないことも起きるかもしれません。それはすでに決まっていて観測される対象物である私にコントロールすることはできません。
しかしこれまでと唯一違うのは、対象物に同化して自己を見失うということがない(同化したとしても気づいて離れるまでの時間がどんどん早くなっていく)ということです。
苦しみはありますが、苦しまなくなります。
悩みはありますが、悩まなくなります。
"不惑"で生きることができるようになります。
これを苦しみからの解放と呼ぶのかもしれません。
さて、ここまで書いて来てあなたが知りたいのは「じゃあどうやったらわたしとは何か?がわかるんだ」ということでしょう。
それについてもこれまで書いて来たことと同じで、
いつわかるかは最初から決まっているのでどうすることもできない
が答えになります。
希望がない答えですが。でも不安もない。
そう希望も不安もないのですよ、本来は。
わからないなら放っておけばいいんです。私がすることは抵抗にしかなりません。
すべては大いなる何かの恩寵の中で起こっていることですから。
だから、探すのを諦める。
探すのをやめたとき見つかる。
見つかるときに探すのをやめる。
探すのをやめるのが先か、見つかるのが先か
本当のわたしの領域では過去現在未来が同時に存在しているので、先も後もないんですよね。因果のループです。もっと言うとループ(循環)なので、始まりも終わりもないのです。
探しモノは最初からココにただ"在った"んですね。
エゴの性質は欠乏なので、ないものを求めるという営みをやめることは絶対にできません。だから同化をやめない限り「どうやって?」を永遠に求め続けるのです。
僕たちに自由意志はありません。でもやりたいように好きなようにまるで自由意志があるかのように行動できます。そしてそれは本当のわたしの意志と一致調和する。ただし、その結果は自分ではコントロールできない(決まっている)。
結局、僕たちにできることは目の前の起きてくることを受け容れ、楽しむことだけなんだと思います。
楽しむとは、(私の視点ではなく)本当のわたしの視点でただ起きていること=人生、物語を観ることだと思います。
それはある意味、ゲームから降りるということ。
このブログのタイトルの副題は"人間ゲームを120%楽しむ法"でしたが、
プレイヤーとしてゲームに参加するのではなく、
ゲームそのものになるということ。
その時「なんて世界は素晴らしいんだろう!」と感じれるようになります。思わずルイ・アームストロングの曲”What a Wonderful World”を口ずさみたくなってしまうかもしれません。
本当のわたしとは、形のない意識であり、空っぽで全部ある空間であり、そこからすべてが生ずる源であり、永遠であり、不変であり、無であり、静寂であり、ただ在る存在であり、これらの言葉では決して正確に表現できない何かです。
人生はあるがままに流れていくだけです。その流れは神秘的で、時に激しく時に不可思議だけれども、それこそがわたしが望んだことなのだ、と受け容れて生きるだけ。そうやって僕らは死ぬまで生きるだけです。
そう言えば冒頭の話で、祖母は生前「80歳までは生きたいね~」と言っていました。「なんで70でも90でもなくて80歳なの?」と聞いたことがあって、そしたら
「なんでだろうね。そう思うんだよ」と答えてました。
いまならその意味がわかるから涙が出て来ます。
ちなみに祖母は、85歳まで生きました。
"すべて完璧に決まっていて、完全に自由"
結局は、
やりたい事を好きなようにやれば良い。
そしてやったことはすべて正解。
あぁ、なんというエクスタシーでしょうか。
完璧な大いなる何かの恩寵の中で何でも自由に選べるんですから。
~ 完 ~