柳田國男 『獅子舞考』を読んだ

柳田國男の『獅子舞考』(『柳田國男全集18』,筑摩書房,1990年)は獅子舞の起源について考える上で、非常に重要な手がかりを示唆している。この論考は大正10年代(1920年代)に発表されたもので、言葉遣いが今とやや異なる。色々な意味で現在では語られざる貴重な記録を今に留めているように思う。以下、その内容に触れる。

 

雑賀貞次郎氏が報じた死屍分割の例(郷土研究3巻473頁)

柳田國男南方熊楠とも交流が深かったと言われる郷土史研究者の雑賀貞次郎による、死屍分割についての記述に言及している。その内容は以下の通りである。

・唐獅子の身体が3つに裂けたのを3国3処に分取した。

=源三位頼政が射殺した怪獣をバラバラにして堺の海に流したら、猿神、犬神、蛇神などの根源をなした。

香取郡豊和村大字大寺や竜尾寺では、けだし竜の一体を三箇所の大寺に分配した伝説あり。これは千葉氏を根拠地として発生したもので、神代紀のカグツチ系の話を縁起化したものであろう(柳田國男説)。『新撰佐倉風土記』参照。

=八岐大蛇伝説に関して、大原郡(出雲国)斐伊郷中簸川の辺りに杉八本あり蛇の頭を祀る。『出雲国式社考』『雲州式社集説』によれば、大原郡神原村八口神社にて、八岐大蛇の首を埋めたとある。

=参(三)河国における犬頭蚕(けんとうざん)の由来はこれに似る。

=参(三)河国碧海郡六ツ美村大字宮地と下和田にて、犬頭霊神及び犬尾霊神の2社には、身を殺して主人の命を救った義犬を祀ったと『犬頭社由来書』に書かれている。

=相州足柄郡曾我村大字下に名馬の首塚・胴塚あり。『山島民譚集 巻一』参照。

これらのように、野獣、家畜、人間など様々な死屍分割の例があり、首塚、胴塚、手塚、耳塚などが日本全国に見られる。これは獅子の信仰の起源につながる話だ。詳しくは後ほど述べる。

 

獅子舞の起源は?大陸説vs日本古来説

◯喜多村信節(きたむらのぶよ)著『筠庭雑考(いんていざっこう)』では、古来の田楽において獅子舞を舞わしめるのは西域亀茲国の伎楽を唐土を経由して輸入したもので、寺社仏閣の前面に獅子狛犬を置く風が、獅子舞普及の原因であるという。

◯藤井高尚著『栄花物語』布引滝の巻には、「獅子こま犬の舞い出たるほどもいみじゅう見ゆ云々」とあり、2種の獅子の根本を1つと見た例である。

田楽の漂白性から全国に獅子が広まったという説に関して、村々の祭礼に出て来る獅子頭を田楽法師が広めたのは納得できても、これが寺社仏閣の獅子狛犬と同一だとするのは疑わしく、昔の学者が名称に絆され易かったということを柳田國男は書いている。

→さらに、獅子舞が天竺方面由来の獅子ではない理由の一つとして、陸中附馬牛などの東北のシシには鹿同然の角があるからとのこと。樹枝を持って鹿角を擬すだけでなく、踊りや歌の章句に雄鹿が雌鹿を求め争う節がある。

=東京などの獅子頭は近世において次第にライオンの写生に近づいてきたが、元は今一段顔も長くかつ角があった。山中翁が元禄刊行の『人倫訓蒙図彙』にも、鹿のごとき枝角があったことを述べている(共古日録十三)。

=『筠庭雑考』において、『四神地名録』を引いて妙な話がある。江戸東郊二合半(こなから)領戸ケ崎村にある三つ獅子。角が2本あり、鶏の毛を飾る。宝永元年の洪水の際に、水練が達者なものが獅子頭を被って川向こうに泳いでいくと隣村の水を防いでいた村民が大蛇が来たと思い逃げてしまった。そこで水練が達者なものが堤を切って、自村の災難を免れたそうだ。

=下総印旛郡豊住村大字鍛冶内三熊野神社花見塚、黄金埋蔵伝説のある塚の上で獅子舞を舞った。獅子頭は牡中雌の3つである。竜頭のような角があり、鹿のような歌がある。

=羽前最上郡盂蘭盆にて獅子踊りを行う。最上家全盛の頃、萩野村の奥なる小倉山で猪(しし)が7匹出て踊った。

東村山郡山寺村立石寺には鹿子舞が伝わり、似たような猪の話がある。この寺は磐次磐三郎(郷土研究2巻19頁)を祀った霊地である。慈覚大師が寺にしたため殺生禁断の地となり、猪が悦び来たるので、それを始めとして舞い始めた。

→これらの事例より、獣肉を宍(しし)と呼ぶことから転じて、鹿(かのしし)や猪(いのしし)をシシと呼ぶような地域・時代があったというわけだ。『万葉』のシシは鹿で、『忠臣蔵』のシシは猪。これが仏教によく出て来る天竺の猛獣と音を同じくしていたという解釈である。これの証拠となるのが、角や口碑の存在だ。

 

獅子頭は信仰の当体であり、祭り具や伎楽具のみならない

・頭痛などの病を噛む獅子頭、病魔を駆逐するという発想の起源は単純ではない。

=下総印旛郡公津村大字船形字手黒の村社麻賀多神社の三箇の獅子面。左甚五郎の作で、毎年春祈禱にはこれを被って五穀豊穣の祈りをする。この面を水に映してその水を飲めば病気が治ると信ぜられていた。

→獅子舞の効験をもって獅子頭その物の威徳に帰せんとする例。祭礼に際し古作の獅子頭を当番の家に安置させお神酒や燈明などを供えてこれを祭るのはよく見られる。

→正月に氏子の家々で獅子舞に与うる銭・餅などを含物(くくめもの)というのは、本来はこれを獅子の開いた口の舌の上に置く風習があったからだ(伊勢浜荻一)。

獅子頭が霊宝となる理由、獅子が途上で激突

麻賀多神社において、ある年獅子面を箱に納めた時にその順序を間違ったところ、三つの獅子が箱の中で噛み合いをしたということで、三つとも今はその舌が抜いてある。獅子の噛み合いには類例がある。

=『遠野物語』において、奥州では一般的に獅子頭のことを権現様と言う。陸中上閉伊郡新張の八幡社と、同郡土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマが争い、新張のゴンゲサマの片耳がもげた。各村各家を舞って歩くゆえに、組のものはしばしば途上で激突するのだ。

=羽後仙北郡楢岡村の耳取橋では、村竜蔵権現の獅子が神宮寺村八幡社の獅子と闘って相手の耳を取ったという話が残っている。この時竜蔵権現の獅子は鼻を打ち欠かれ、憤って自ら長沼に飛び入りその主となった。

→耳取の昔話は、結局最初の境塚の問題に帰着する。これを説明する材料は、諸国の田舎に散在する獅子塚・獅子舞塚などの塚名や地名である。羽後国にはこの塚に関する口碑が多く残っている。『雪之出羽路』巻八、平鹿郡浅舞町の獅子塚の条に「昔この郡大森町に大森獅子舞あり。山田の獅子頭と闘いて戦負けたればここに埋むという。大森獅子舞の浅舞に入り来たりしという物語あり。また獅子塚も所々にありて由来同じ。昔このわざ大いに募り大いにあらび、組み合い蹈み合い喧嘩して死する者あり。これを埋めししるしなりともいう」とある。

→獅子の噛み合いとは獅子舞組の喧嘩のことで、耳を喰い切られたというのは打ち付けて壊れたということを意味する。

獅子頭を埋めたという風習は、他村の獅子舞の舞い込むのを防止したということ。これは、掛踊りの風習に基づくものである。昔は村に干ばつ・害虫、時疫が発生した場合、悪霊の仕業として鉦鼓喧騒してこれを村外に駆逐した。普通はこれによって迷惑するのが隣村であり、手前勝手の衝突なので、元来た方向に追い返した。これは当時の語では「踊りを掛けられた」「掛け返す」と称して、急な催しなので俄踊り(にわかおどり)と称した。普段は仲が良くても、祭りになると喧嘩するのが村同士の常であった。

→印地打、凧揚げの勝負による年占(消極的防衛)と、実際生活上の必要性(積極的努力)に分けられる。

→獅子舞が神楽に変化したとき、それは神を喜ばせる社頭の遊戯か?家々の門を廻って悪魔を払うという意味が不明になる。

→この風習はホイト(物貰い)の発明とも異なる。盆踊りが新仏のあった家の前で丁寧に踊られるのと同じで、御霊を信じた一種の清潔法であった。その証拠は中世の獅子が田楽に伴ったものであり、田楽は御霊会によって起こったものであるからだ。

=遊行門派の念仏聖で獅子を被って念仏踊りをする者がいた。信州上高井郡高甫村大字野辺における野辺座の念仏がこの類である。

=陸前牡鹿郡鹿妻村にて牝鹿の死を悼み、鹿野苑の周行に比して功徳肝心のためにうたう。

安房では旧長狭郡不動尊、7月7日にフリュウ(風流・盆踊りの古名)と称して獅子舞をする。

・中元の名残として8月15日に獅子舞を舞う場合が多い。この時期に重い祭りのある八幡神との関係性があるかもしれない。正月15日も悪霊退散の一季節として、獅子舞を舞う場合が多い。

甲州では一般的に正月15日に道祖神を祭り若連中が獅子頭を舞って人家に押し入り、時々乱暴して花婿花嫁をいじめる。

・伊勢の代神楽はなんとなく広範にわたって竃払いをする。疫病や不時の天災だけでなく、生活の悪事災難を払うという意味。

・含物(くくめもの)、おひねり、初穂などの金品は、耶蘇教のアルムスとは別。お盆の蓮の葉の飯や節分の豆のような一種の贖物である。

 

死屍分割譚の結末

・なぜ獅子頭を霊物視して村境まで持って行ったのか。

陸奥南津軽郡黒石町の付近でシシガ沢という所に100年前まで石上の彫刻があり、木の中にある小さな岩には鹿の首が彫ってあった。毎年7月7日に出現するとのことで、誰の仕業かわからない。この近村では、鹿踊りの獅子頭が古びたら岩の周辺に持ってきて埋めるのだとか(『真澄遊覧記』巻13)。2つの挿画によれば、1つは珍しい碑の所在地に関する記録。もう1つが上下左右の一定の方角なく彫られた鹿の頭であった。石面に鹿の頭を彫り始めた今ひとつ前には、本物の鹿を屠(ほふ)り神を祭っていたのではないか?

アイヌの熊祭など。牲に捧ぐる獣を邑内を曳き廻す他民族にも例あり。

=鹿の頭を供えるといえば諏訪。

=讃州三豊郡麻村大字下麻の首塚では毎年、鹿の首を諏訪の神に供えた。鹿を得なかった年に牛の頭を奉った所、神殿鳴動して永くこの祭が止んだ。

=京都の清水観音の鹿間塚は開基の際に、霊鹿が来て地を夷(たいら)げたという口碑がある。鹿の頭が寺の宝として永く伝えられていた。

→この殺伐な慣行は東夷に限られたことではなかった

=獅子舞の起源には、大陸系の獅子舞が渡来する以前に、死屍分割譚に関わる信仰が日本全土に根付いていた。

 

<獅子舞・獅子頭の起源に関する書籍・論文>

柳田國男柳田國男全集18』筑摩書房 1990年(大正時代の論考)

喜多村信節『筠庭雑考』 吉川弘文館 2007年(江戸時代の論考)

石川県立博物館『獅子頭』1998年

上杉千郷『獅子・狛犬の源流を訪ねて』 皇學館出版部 2004年

中山太郎『獅子舞雑考』 青空文庫POD 2015年

星野紘『ユーラシア域の祭祀舞踊ー神懸かりと動物模擬』2014年

李応寿『東アジア獅子舞の系譜:五色獅子を中心に』 2000年