野宿をしたくなる場所は存在すると思う

野宿なんてやりたくない!という人が大半だろう。しかし、人間を野宿へと誘引する場所がこの世には存在すると思う。そんなことを考えながら、このブログを書くことにした。

 

まずは自らを野宿へと向かわせる動機について。大学生のときは、節約したいという思いは少なからずあった。泊まるという一時的な快楽にお金を払う意味があまりわからず、他のことにお金を使いたいと思って一人旅のときには野宿をすることも多かった。

 

ただ、最近は節約はおまけという感覚になりつつある。心地よい場所でテントをはり、風の音を聞きながら、出っ張った根っこを避け、土の感覚を直に感じながら寝るということが意外と贅沢な行為に思えてくる。野宿は絶対したくないという場所と、野宿をさせてもらえてむしろありがたいという場所がある。後者はより田舎的で適度に緑があって、人の気配が多少ある場所なのだが、これをベストな形で言語化することは難しい。

 

それと、テントという人間が入れる最小単位の空間にワクワクを感じるのも大きい。完全なプライベートスペースを築き、場所を一時的に占有するといういたずら心がむくむくと湧き上がってくる。睡眠の新しいカタチ、心地よさへの探究心がこれを欲してやまないのかもしれない。

 

そのようなことを考えながら、2022年6月25日、新潟県佐渡島で3年ぶりに野宿をした。どこで野宿をしたくなったか、場所まではここで明かすことはしない。ただし、この島は少なからずテントを張って野宿をしたくなるような空間的な余白と魅力が詰まっている島だった。

 

ところで、最近は野宿の技術がなまってきたと感じる。その理由は今回、なかなか寝付くことができなかったからだ。テントがカサカサと揺れる物音が人間あるいは獣が枯れ葉を踏みしめる音に勘違いして、「襲われてしまうのか?」という妄想が頭から離れなくなり、寝付けない時間が続いた。佐渡島特有の強風がその妄想を半分手助けしていたようにも思われる。

 

あとは今回、どれだけ人気が多い場所にテントを張るかを悩んだ。近くにうす暗い場所が少しでもあると、「そこに眠る怨念が目を覚ますのではないか?」という妄想が湧いてくる。今テントを張っている場所で昔何があったのかはよくわからない。土地を直に感じる手段が野宿であるとするならば、その土地の持つ恐ろしい気配が少しでもあると敏感に感じ取ってしまうようだ。佐渡島流刑地だったので、尚更そこらへんは敏感になっていた。

 

テントを張ったのは23時半で、最終的には鳥の声で4時半には完全に目が覚めた。5時間の短い野宿だった。鳥は人間よりも遥かに早起きだ。アーアーアーなどと仲間達に呼応するように鳴いていた。なかなかに声が大きい。もう朝になったかと自覚する。鳥のフンを被りたくないという想いが湧いてきて、最終的にはテントを畳むこととなる。ここまでが野宿で考えていた一部始終だ。野宿は奥が深いので、野宿論などという研究でもしてみたくなった。