富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主に従う道(主の鍛錬)」 ヘブライ人への手紙12章3~13節

2022-08-10 17:28:40 | キリスト教

       ↑ 「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12章12-13節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第11主日   2022年8月14日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                   司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

交読詩編   85(主よ、あなたは御自分の地をお望みになり)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヘブライ人への手紙12章3~13節(新p.417)

説  教    「主に従う道(主の鍛錬)」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

讃美歌(21) 531(主イエスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

                                          次週礼拝 8月21日(日)  午後5時~5時50分

                                          聖 書 マルコによる福音書10章13-16節

                                          説教題  「子供を祝福する主イエス」

                                          讃美歌 404 544 27 交読詩編 127 

本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章3-13節

12:3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

本日の説教

ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る味方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。

著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

11章では、旧約聖書の優れた人々の例を挙げて述べています。アベル、エノクから始まり、ダビデ、サムエルまで、16人の個人名が挙げられています。また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指し、35節の<女たち>は、サレプタのやもめ(列王記上17:8)、シュネムの女(列王記下4:25)を指しています。

彼らの全てが、「信仰によって」神に示された道を歩み、それぞれの時代、それぞれの状況において、神の恵みの業をその目で見、自ら神の御業の体験者となり、新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々となり、何よりも神の御業を証言した人々でした。

その信仰は、「この世界が神の言葉によって創造され」ている、見えない事実を確認し、神の約束を望み見て、ただ神のみに従いました。旧約時代の人々は、信仰によって忍耐と希望を持ち続け、私たちと共に全き祝福にあずかる日を待っています。

このように旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、次に求められるのはこれを模範としてキリスト者も、忍耐と希望をもって信仰生活のたたかいに耐えようではないか、という勧告です。

11章では、旧約時代の多くの信仰の先人の実例を挙げて励ましたが、12章1-2節では、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。イエスにおいて信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。イエスはわたしたちのために救いの道を開き、実現された方です。信仰はこの方に始まり、この方において完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。イエスは天にある喜びを捨て、<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び>、再び<神の玉座の右に>座る祝福を与えられました。

「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(12:3)

2節に描かれたイエスの姿が、この書の読者である信仰者たちの励ましの根拠とされます。あなたがたが<気力を失い疲れ果て>るとは、今読者たちが陥ろうとしている信仰の状態を指しています。そうならないように、最後まで<御自分に対する罪人たちのこのような反抗を耐え抜かれ、今や神の王座の右に座られているイエスのことを<よく考えなさい>と命じています。イエスの耐え忍ばれた恥や苦しみのことを考えるなら、今自分たちが経験しているどのような妨げも、信仰を揺るがすものにはならない事を教えています。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

1-3節で、競争のたとえが用いられたのに対して、ここではボクシングのたとえが用いられます。<戦って>という語は「試合をする」という意味です。この時代のグローブは金具で裏打ちされていたので、しばしば流血を招きました。ここでは、戦う相手は<罪>と規定されているが、まだ<地を流す>に至るまで迫害に対する信仰の戦いを経験していないことを、読者に告げ、その様な状況になるかも知れないことを警告しています。

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」』」(12:5-6)

5-6節は箴言3:11-12が引用されています。<子よ>は、ここではキリスト者に対する呼びかけとして引用されています。<鍛錬>という語は、子供を教育することを表します。<主の鍛錬を軽んじ>るとは、神が人間を鍛え、育てようとして<懲らしめて>おられるのに、その意味を少しも悟らないことです。同時に<力を落としてはいけない>と励まします。ここで言われているのは、主の訓練としての苦難の意味を正しく理解しなさいということです。

6節は、古代世界では一家の家長は子供の福祉に責任を負うだけでなく、権威の源であり、したがって子供と奴隷を教育するために体罰を加わえることもありました。神もその家族の一員であるキリスト者を子供として厳しく鍛えられるのです。

「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(12:7)

神がキリスト者を<鍛錬>されるのは、愛しておられるからにほかなりません。鍛えられないということは、裏を返せば無関心であることを意味します。それゆえ鍛えられるということは、神の正統な子であることの証明なのです。

「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし)であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。」(12:8-9)

 8-9節では、地上の父との対比で普遍的な父としての神が示されます。<庶子>とは、法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子です。<肉の父>とは、わたしたちの肉体と生命の源である人間としての父を指します。<霊の父>とは、根源的には神御自身が生命を与える方であり、神のみがわたしたちの身体を生かす霊を送られる父であることを言います。鍛えてくれる肉の父を尊敬するなら、なおさら、霊の父に服従すべきであると勧告しています。

「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。(12:10)

 10節では、肉の父と霊の父との類似性が述べられます。<しばらくの間>とは、肉の父の場合には子供が幼い時期ということになるが、霊の父の場合には一生涯を意味します。両方の父の訓練の方法は、肉の父の場合<自分の思うまま>であって、誤りを犯したり、情熱に駆られる可能性もあることが暗示されています。これに対して霊の父は<わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で>訓練されるのです。ここには創造の目的と等しい唯一の目的が示されています。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(12:11)

<鍛錬>の本当の意図は、結果を体験してから始めて分かるものです。ここには、人生が一種の霊的な訓練の場であるとの思想が見られます。<平和に満ちた実を結ばせる>とは、よい人生は、人間の側において積極的に神と共に働くということがあって初めて達成されることが言われています。

「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」(12:12)

<だから>とは、11節までののことを前提としています。「鍛錬というものは・・・後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」のだからということで、その実を結ぶということに信頼と期待をもって、ということです。イザヤ書35:3以下を引用して、苦難にあって弱っている心を励まします。イザヤ書には、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(イザヤ書35:3-4)とあります。鍛錬によって、「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」と勧めるのです。鍛錬は、霊の父である神が、御自分の神聖にあずからせる目的があるのだからです。萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさいとの命令は、精神的な意味で、心の上で、元気を出すようにとの励ましです。これはたとえ、実際に萎えた手と弱くなったひざがまっすぐにならなくても、信仰生活の姿勢を正しなさいという、生き方の問題として言われていると思われます。

「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(12:13)

13節は箴言4:26以下を念頭に置いています。「どう足を進めかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ」(箴言4:26-27)とあります。まさに、「足の不自由な人」が踏み外すことのあるような道は悪い道であって、そのような道を歩まないこと、歩ませないようにすることこそ、どう足を進めるか、すなわち、どう生きるかということでが問われているのです。

<まっすぐな道を歩>くとは、「福音の真理にのっとってまっすぐに歩く」(ガラテヤ2:14)ということです。<足の不自由な人>とは、信仰生活の状態を表すための比喩的表現でしょう。<足の不自由な人>が、<いやされるように>、すなわち、しっかりした足どりで、確信を持って歩むことが出来るように、先に元気になった人は、自分の足で、信仰において自立した者として、<まっすぐな道>、正しい道を歩きなさいと勧めています。足の不自由な人が歩きにくい、踏み外しそうな道をそのままにしておいて、自分さえ歩ければ良いということは、「聖なる生活」を追い求めるということにはなりません。

12章1節で引用した。イザヤ書35章3-4節は、悔い改めたイスラエルが、「聖なる道」である「大路」を通って祖国に帰っていくことを預言します。シオンに帰ってくるのは「主にあがなわれた者」(イザヤ35:10)のみです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで・・」(イザヤ35:5-6)と表現しています。自然の回復と不自由な人の終末的な回復の奇跡です。その中に「汚れた者」「愚かな者」は含まれて

いません。ヘブライ人への手紙が語る、キリスト者の道の方向は、イザヤの「聖なる道」と同じであり、聖なる道を旅する者は、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求め」(12:14)なければなりません。神と人との平和と、人とその隣人との平和は救いに伴うものであります。「霊なる父」は、鍛錬によって、義という平和に満ちた実を結ばせてくださることを感謝しましょう。

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