今日はD51-639の日 / 1番短命だった機関車 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

今日はD51-639の日 / 1番短命だった機関車


今年も6月25日が訪れました。


公式の記念日ではありませんが、更新日と6月25日が重なった年は、できる限り記事にしたいと思っています。


D51-639号機は1941(昭和16)年5月21日 水曜日に、三菱重工業神戸造船所にてNo.330として誕生しました。



北京議定書に基づいて駐軍した日本へ対して、反政府反日革命軍によるテロが続いていた中華民国と、満洲をめぐる国境紛争により発生した支那事変(日中戦争)は想定外の総力戦へと発展しました。


泥沼化し解決の目処が立たなくなってしまった日本は、南進を行って中国国民党への物資の補給路を断ち、石油などの物資を入手することで日中戦争の解決を図ろうとしました。


ヴィシー政権下のフランスから認可を受けての進駐でしたが、フランス以外のヨーロッパの反発は強く、日本政府は各国との外交に奔走していました。




欧州諸国はナチス政権下のドイツと戦乱によって東アジアに関与する余裕が無かったため、アメリカへの対策が最大の課題として残りました。


日本は日独伊三国同盟や日ソ中立条約によりアメリカを牽制しましたが、反対にアメリカはこれを裏切り行為と受け取り、南進を新たな侵略行為だと非難します。


そして通称ABCD包囲網を展開し日本を牽制すると同時に、欧米諸国共同で全面禁輸を実施して日本を経済制裁へと追い詰めます。



日本は日米交渉にて2種の提案を示しましたが、三国同盟をどうしても許せなかったアメリカはこれを受け入れず、代わりにハルノートを提示しました。


ハルノートは世界情勢を鑑みてアメリカの立場を要求したもので、日本としてはとても受け入れられる内容ではありませんでした。


アメリカはまだ日本との外交解決を模索していましたが、日本はこのハルノートを最終通牒と誤解し1941(昭和16)年12月8日に日米開戦に至ってしまいました。




こういった情勢で日米開戦直前に落成したD51-639号機は、実際に小郡機関区へ到着したのは3週間後となってしまったようです。


東海道・山陽本線は戦時物資輸送が最優先され、ダイヤ的に線路が開かなかったこともありますが、 国鉄へ引き渡し前の機関車を回送させるための機関車が無かったことも理由の1つでした。


1944(昭和19)年9月頃、小郡機関区から岩国機関区へ転属となりましたが、1945(昭和20)年8月14日に、延べ500機による史上最大の空襲が襲いかかります。



「民家や暮らしを焼き払うことで、日本の生産力を崩壊させ、反抗力を精神的にも破壊する」


1945(昭和20)年3月以降、それまで工場などへの精密爆撃から無差別爆撃へと変更した、アメリカ軍による空爆戦略でした。


D51639はこの時の爆撃で大破してしまい、長い月日を放置車両として過ごしていましたが、1947(昭和22)年6月25日に廃車となりました。


D51639


最近、廃車は1946(昭和21)年10月18日だったと資料が発見されたようですが、″終戦の日″と″終戦記念日″が違うように、″D51639の日″も6月25日のままで良いように思います。


書類上では享年が3年1ヶ月4日から2年4ヶ月28日へと若返りますが、実際には8月14日でその生涯を閉じており、D51639は稼働車として1年2ヶ月24日の鉄道開業150年を通して1番短命だった機関車に変わりはありません。


これまでは8月14日にスポットライトを当てていましたが、今年は鉄道開業150周年ということで日米開戦頃の話題にしました。



次回、更新日と6月25日が重なった時には、もっと幅広く鉄道を通した″慰霊の日″の記事にしたいと 考えています。


写真はD51-200号機をベースに639号機をイメージしたものと、岩国駅前にある慰霊の碑です。


岩国大空襲の碑文は「昭和20年8月14日、第2次世界大戦において、岩国駅前地区空襲警報によって依って受難された方々のご冥福を祈ると共に戦争の恐ろしさと、平和の尊さを祈念しここに碑を建立する」


平和記念碑の碑文は「岩国駅周辺は、1945年(昭和20年)8月14日、米爆撃隊による大空襲を受け全壊家屋543戸、半解家屋343戸や壊滅的な打撃を受けました。罹災者も5911人にわたり死者517名、行方不明者30人、負傷者859名と多くの人々が犠牲となりました。この碑は岩国駅周辺の大空襲により、お亡くなりにな られた方々のご冥福をお祈りするとともに、この事実を 後世へ伝え、恒久平和への願いを込めて建立したものです」