MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 27 - 霜を凌いで咲く葉菊・郡上藩士凌霜隊(2021年3月28日/3日め)

2021年3月28日 郡上八幡城で。(岐阜県郡上市)


田中本家の日記で、ミュージアムショップの品が通販されていることをご紹介しました。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 22 - 田中本家博物館 ミュージアムショップ(2020年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE-全盲難聴のんたんの育児記録と卵巣ガンで思ったこと


田中本家博物館オンラインショップはこちらです。


モカさんが、「信州須坂 老舗銘菓セット」を購入してくださったそうです。写真も掲載されていて、おいしそうです。^^ その昔、お殿様が召し上がったという、田中本家オリジナルのカステラも入っていて、見ているだけでワクワクします。^^ モカさん、すてきな記事をありがとうございました。


「信州須坂 老舗銘菓セット」(3600円)は、
  須坂藩の御用菓子屋だった「二葉堂」
  秘密のケンミンSHOWでも紹介された「盛進堂」
  百年続く餠菓子店「コモリ餅店」
という、須坂市の老舗菓子屋3店舗の銘菓と、田中本家オリジナル和菓子「家主貞良」の詰め合わせです。MIYOも注文したのですが、これから次の旅に出るので、帰宅してから送っていただく予定です。(画像をお借りしました)


コロナ禍で、一日の来館者数がヒトケタになっている田中本家博物館。広大な庭を維持していくために、通販にご協力いただきたいそうです。お菓子を味見してみたい方がいらっしゃいましたら、ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。


3月28日


郡上八幡の日記にもどります。


郡上八幡城

お城の中では、「郡上八幡の魅力と水の歴史」についての展示がありました。MIYOが30年前にテレビで見たのも、これでした。水を大切にして、清らかな水と生きる人たちの町を見てみたいと、ずっと思っていました。

郡上八幡は、八幡藩(郡上藩)の城下町として古くから栄えたところです。16世紀後半に、遠藤盛数が八幡城を築城。その後、稲葉氏、再び遠藤氏、井上氏、金森氏、青山氏の治世を経ましたが、廃藩置県により、郡上郡となりました。

350年の歴史がある、水の城下町・郡上八幡。

水屋、水舟、用水、セギなど、独自の方法で、水を清らかに、大切に使い続ける文化があります。水屋は、滋賀県五箇荘にもありました。なつかしい。^^

家の中に用水路の水を引き込み、洗い場や川戸を作っています。水と共に生活する暮らしがありました。

川戸は、滋賀県にもありました。五箇荘で見た水屋(川戸)です。(2020年9月24日)

滋賀県・五箇荘の日記はこちらです。


郡上八幡で、用水路の水をせき止めるために使われている、セギ板。

町中に、こんなにたくさんあるのだそうです。^^

美しい水を守り、水と共に生きる町、なんですね…。

お城からの景色を堪能し、次は、町の中にある「郡上八幡博覧館」に向かいました。

「郡上八幡博覧館」です。大正9年に建てられた旧税務署を、当時の外観をそのままに利用したミュージアムです。博覧館の名称は「博物館 」と「博覧会」との合成語です。(画像をお借りしました)

八幡城で、博覧館とのセット券を購入していました。最近の観光スポットでは、こういうセット券が多いですね。

ここでも、来館者は私たちだけで、貸し切り状態でした。中に入ってみます。大きなパネルの前で郡上踊りを踊っている、たくさんの小さな人形が見えます。

ひとつひとつが違っていて、楽しいですね。ドラえもんやアトムもいますよ。^^


まずは、歴史のコーナーに行きました。
展示はたくさんあったのですが、
割愛し、少しだけご紹介します。


懸仏(かけぼとけ)です。 懸仏とは円板に仏像の鋳像を付けた姿で、室町時代に流行しました。那比新宮神社(なびしんぐうじんじゃ・岐阜県郡上市八幡町)には、247面にも及ぶ懸仏があり、その大部分は、国や県の重要文化財となっています。


次に、
「幕末の郡上藩」
という展示に入りました。
そこで私たちは、
驚くものを見てしまいました。


凌霜隊です。


凌霜隊(りょうそうたい)は、1868年(慶応4年)に、郡上藩の脱藩士によって組織された部隊です。戊辰戦争において、旧幕府側に立って、新政府軍と戦いました。よく知られている「白虎隊」と、共に戦ったわけです。


【凌霜隊】
新政府軍が江戸に迫りつつあった1868年(慶応4年)、江戸家老朝比奈藤兵衛の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)が隊長となり、江戸在番の脱藩士45名による部隊を組織して、これを凌霜隊と名付けましたた。「凌霜」とは、霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来します。


凌霜隊は、一言でいえば、捨て石でした。
新政府軍と幕府軍。
藩自体は、新政府軍についたわけですが、
世の中は混沌としていました。
この先、万が一、幕府軍が勝っても、
藩として存続できるように。
そう考えた家老が、自分の息子を隊長にして、
組織したのが、幕府軍側で戦う凌霜隊だったのです。


彼らは、藩の命令を受けながら、
藩に迷惑がかからないようにと脱藩し、
新政府軍と戦います。
最後は会津で、白虎隊と行動を共にしました。
そして、会津戦争で敗北した後、
生き残った元凌霜隊士35名は、
苦難の末、郡上八幡城下に戻りました。


しかし故郷では、
彼らを脱藩の罪人として扱い、
赤谷の揚屋へ監禁しました。


藩では当初、
元隊士らを処刑するつもりでしたが、
新政府の命令により、赦免されました。 
しかし、罪人とされた元隊士達に対して、
周囲の態度は冷たく、
「地元の恥」とされたそうです。
失意の中、元隊士らの多くは、
郡上八幡を離れていきました。


藩のため、幕府のため、
脱藩までして、
会津軍と共に戦い続けた人々が、
ここにいました。


にもかかわらず、
その後の彼らが受けた仕打ちを思うと、
哀れと言うほかありません。


その後ずっと、
忘れ去られてきた凌霜隊ですが、
近年になって、
「彼らのことを語り継ごう」
という機運が高まってきたそうです。


そうです。
そうでなくてはいけません。
彼らもまた、藩のため、国のためにと、
ひたむきに戦ったのです。
罪人として、
歴史の中に葬り去るなど、
あってはならないと思います。


郡上八幡城にある、「凌霜の森」。このときは、なんのことかわからず、通り過ぎてしまいました。訪れなかったことが悔やまれます。


実は、この一か月後、私たちは福島に行き、
白虎隊について、詳しく学ぶことになります。
そして、白虎隊と共に戦った凌霜隊についても、
さらに知るようになりました。


会津若松市の飯盛山には、
白虎隊士の墓と共に、
「郡上藩凌霜隊之碑」があるそうです。


飯盛山には、一年前に行ったのですが、「凌霜隊之碑」があるとは、全く知りませんでした。(2020年8月11日)


いつか、飯盛山を再訪し、
「凌霜隊之碑」に、お参りしたいと思います。


郡上藩士・凌霜隊。
凌霜とは、
霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神」
を表す言葉だそうです。


「霜を凌いで咲く葉菊」
…いい言葉です。
葉菊の志で会津まで行き、
闘い続けた郡上藩士がいたことを、
これからも忘れないでいようと思います。


(つづく)

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