MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 19 - 台風なら浦添城③(浦添城跡前田高地/ハクソー・リッジ、展望台、そして浦添ようどれへ)(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 沖縄戦最大の激戦地となった、浦添城跡前田高地(ハクソー・リッジ)。現在は展望台になっています。まるで、浦添の街を見守っているかのようでした。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城を歩いています。
伊波普猷の墓から、
海の方向に向かって歩いていくと、
城壁が現れました。


この石垣は分断されていて、その間が道になっています。分断されているのは、ここに城門があったから、ではありません。


上の写真で、右側の石垣は、
戦争で破壊された当時の城壁のラインですが、
左側は、発掘調査に基づき、
想定されるラインを復元したものだそうです。


これは左側の石垣です。

これは右側の石垣です。裏側は、こんなふうになっています。

第二次世界大戦で、この城壁は、壊滅的な被害を受けました。修復前の写真を見ると、道の両側には、がれきしかない状態です。その後、発掘調査に基づいて復元したのが、現在の城壁です。よくぞここまで修復したと思います。


石垣がこれほどまでに破壊されたのは、
かつてここに、
前田高地壕群があったからでした。
つまりここが、
映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった、
「浦添城跡前田高地」そのものなのです。


この日の朝、
浦添城を訪ねると決まったときから、
多動夫は、
「『ハクソー・リッジ』って言うんだけどね。
 沖縄戦の激戦地だったところなんだけど、
 そこを見たいんだよね。」
と、何度も言っていました。


そのときのMIYOは、夫のことばを、
あまり気に留めていませんでした。
「行くのはお城でしょ。
 激戦地の跡を見てどうするの?」
くらいにしか思っていなかったのです。


けれど、実際に浦添城に来てみると、
その大激戦地であったという歴史から
目をそむけてはいられなくなりました。
それほどまでに、浦添城には今も、
戦争の傷跡が深く残っていたからです。


沖縄戦最大の激戦地となった、
浦添城跡前田高地(ハクソー・リッジ)
について、少し書きたいと思います。


【浦添での戦い】
1945年4月1日に、米軍は艦船1400隻、将兵54万人の内、183000人からなる大部隊で、沖縄に上陸しました。これに対して日本軍は、首里の司令部を守るために、宜野湾の嘉数高地と浦添グスク一帯(前田高地)に防衛線を張り、進軍してくる米軍を迎え撃ちました。地上では米軍の手榴弾が投げ込まれ、空からは「鉄の暴風」と呼ばれたほど凄まじい砲撃が繰り返されました。特に浦添グスク一帯は、日本軍と米軍の激しい攻防戦が繰り広げられた場所でした。浦添は、沖縄戦最大の組織的な激戦地となり、多くの死傷者がでました。当時の凄惨な状況は、「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」ということばで表現されています。


上陸する米軍。

石垣のそばには、日本軍の陣地壕跡が今も残っていました。


「この金網がない写真を撮りたいよね…。」
とMIYOがつぶやいたら、
「できるよ。」
と夫。😅


フェンスの隙間をのぞくようにして夫が撮った、同じ場所の写真です。北海道を旅行しているときは、「こういう大きな葉っぱの下にはコロポックルがいるんだよね。」などと、のんきな会話をしていました。が、沖縄では、こういうところの奥には塹壕や防空壕が残されていたりするので、心穏やかに見ることができません…。


【日本軍陣地壕跡】
この壕は、首里に侵攻する米軍を阻止するため、「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」が現実となった場所でした。前田高地では、第62師団独立混成第63旅団が、この高地の地形を利用して洞窟・トンネル・トーチカ連鎖陣地を構築しました。それぞれの壕同士が繋がった、大規模な陣地だったようです。「壕口が一つ破壊されても問題がないように、内部では壕同士が繋がっていた」と書いた、日本兵の手記が残っています。


現在は、落盤や土砂の堆積が激しく、壕の中に入ることはできません。

今は、修復された城壁が、美しい石積みを見せています。

この城壁の先に、浦添ようどれがあります。

このあたりは美しい景色が広がる展望台になっていて、「浦添八景」のひとつとなっています。柵の向こう側は崖です。

展望台に立つと、眼下には、浦添の街と静かな海が広がっていました。


【展望台周辺の激しい戦闘】
沖縄戦当時、浦添城跡一帯の丘陵は、米軍から「ハクソー・リッジ」、日本軍から「前田高地」と呼ばれていました。米軍がこの崖を「ハクソー・リッジ」と呼んだのは、その地形がHacksaw(弓鋸)のようであったためです。

このあたりは、北側が急峻な崖地となっています。米軍にとっては攻めづらい陣地であったうえ、日本軍が決死の防衛線を繰り広げました。そのため、日本と連合国両軍の大激戦地となりました。
ハクソー・リッジのように急に高くなった丘陵や崖は、戦車による進軍が難しいことから、米軍は兵士自らが攻め寄せる攻撃にならざるを得ませんでした。一方、守る日本軍は、攻め寄せる米軍に対して高所から攻撃を加える、あるいは崖を乗り越えた米兵を狙撃、砲撃するという激しい戦闘を余儀なくされました。


これがHacksaw(弓鋸)です。まるでこののこぎりのように切りたった崖が、前田高地でした。

この沖縄戦を描いた映画『ハクソー・リッジ』(Hacksaw Ridge)は、2016年にアメリカ合衆国で製作され、2017年のアカデミー賞において録音賞と編集賞を受賞しました。

展望台でしばらく立ちつくしました。ここで、激戦が繰り広げられました。この穏やかな海から米軍が攻めてきて、日米双方に多大な犠牲者がでました。言葉にならない思いがこみあげてきました。

左側に浦添の街を見下ろしながら、再び歩き続けました。

やがて、「浦添ようどれ 入口」と書いてあるところに着きました。下方向に向かって、石段が続いています。ここを降ります。

ずいぶん長いですが、さらに降り続けます。


このときのMIYOは、
この先になにがあるのかも知らず、
夫に連行されるままに、
ただ歩き続けていました。笑
(相変わらず、下調べを全くしないで旅行しています。😅)


その長い石段を降りた先には、実は、こんな世界が広がっていました。

浦添ようどれに、到着です。


次回は、この浦添ようどれについて、
もう少し詳しく書きたいと思います。


(つづく)

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