モデリングすることは、失敗することの方が大事?? | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

 

 

どもども。

 

新年、明けましておめでとうございます(^^)/

 

今年も、このブログと私キンジ共々、

よろしくお願いいたします。

 

 

でわ早速、

本日の記事に入って参りたいと思います。

 

 

 

まず、そもそも論として、

 

この世に生まれ落ちて、

楽しさや、充実感を満喫する為には、

ある種の、

創造性を発揮する必要性があるのでは無いでしょうか・・・・・・・??

 

 

 

要するに、

勿論、

 

何か目的が存在しており、

その目的の大小遺憾は、

横においておいたとしても、

 

それを成し遂げる為には、

そこには、

ある種の、

 

理路整然とした、論理ってものが必要となるだろうし、

 

その論理を組み合わせた、

ひとまとまりの、ゲシュタルトを、

創造することが出来うるからこそ、

 

その目的を、達成することが出来うるのだろうし、

また、

 

その論理が存在するからこそ、

そこに、

 

改善する余地も出来上がるものとは、

言えるものではある事でしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

 

が、

だからと言っても、

 

その論理だけに、フォーカスを当て続けるって事もまた、

 

我々人間には、

難しい側面があるのでは無いでしょうか・・・・・・??

 

 

 

 

即ち、

 

無理して、結果だけを追い求めてみた所で、

勿論、

 

その論理に、「終わり。」が存在しており、

 

「ここまで構築出来うれば、そこで完了!!」

 

・・・・・・って言う風な、

 

小さなゴールが具体的であれば、

 

そこまでは、少なくとも、

 

頑張って、我慢して、

達成する事が、可能にはなる代物とはなる事でしょうが・・・・・・、

 

そればっかりを、

続けて行く事は、

ハッキリ言って、

 

自分自身の、アイデンティティを、

見失う行為でもあり、

 

その無理がたたるからこそ、

 

長期的にみてみれば、

 

その論理だけを、結果だけを追い求める行為自体に、

逆に、

「終わり。」を描きがちとなってしまうのもまた、

 

我々の習性ではあるのでしょう・・・・・・・。

 

 

 

 

だからこそ、

 

その論理性の隙間の部分にて、

自分自身の居心地の良さを、確保しておく必要性も、

存在するのだろうし、

 

その論理性の隙間の部分にて、

所謂、

「遊び。」となる要素を、

創造して行く必要性もある・・・・・・って事なのです。

 

 

 

 

要するに、

 

何かを習得したり、

何かを達成する為には、

 

誰かの、行動の伴った論理性ってものを、

モデリングする必要性がありますし、

 

そのような、

モデルが存在していた方が、

 

より、「達成する自分。」に、

近しくなりやすいものではあるのでしょうが・・・・・・、

だからと言っても、

 

そのモデルとする人自身の「在り方。」が、

自分自身の、

在りたい在り方を、

踏まえている保証ってものは、

何処にも無くて・・・・・・、

むしろ、

 

効率重視のスタンスで、

物事に取り掛かったのはいいけど、

 

「こんなはずじゃあ無かった。」って思いもまた、

 

その、効率重視のスタンスに、

含まれてしまうって事もまた、

 

この世の中には、

幾ばくか、見受けられるのでは無いでしょうか・・・・・・??

 

 

そのような、

ある種の、

 

その本人にしか、解りにくいような想いは、

その大抵が、

 

他人からの、客観的な視点からは、

センスの問題とか、気の迷いとして、

不本意なレッテルを貼られがちな問題ではある事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

が、だからと言っても、

 

そのセンスとか、気の迷いこそが、

 

自分自身の、創造性を発揮して、

楽しさや、充実感を、満喫する為には、

 

「どれだけ重要な要素となるか??」

って問題には、

 

我々は、

 

もっと自由に、

執着しても良い部分なのでは無いでしょうか・・・・・・・??

 

 

 

 

 

要するに、

その部分は、

 

主観的に言えば、

居場所とか、間を持たすとか、

モチベーションの源泉とか、

言えるものではあるのでしょうが・・・・・・、

 

客観的に言えば、

 

それは、人によって、

違いが見えるものでもあり、

勿論、

 

上記の、主観的な視点と同じように、

感じる人々もいる反面、

 

論理の管理側から見れば、

それは全て、

 

小さい大きいには関わらず、

ミス=失敗として、

うつる側面があるものでもあるのです・・・・・・!!

 

 

 

要するに、

 

そのような、論理性を、

突き詰める場であれば、

そこは、

 

ミス=失敗が御法度な状態ではありますが、

そもそもとして、

 

完全な、ミスが許されない場所には、

我々、人間の居場所ってものは、

存在しない事でしょうし・・・・・・・、

 

その度合いが、

キツくなればなるほど、

 

居心地が悪くなったり、

またそもそもとして、

 

「生きづらさ。」ってものが、

生まれてしまうもんだと、言う事なのですよ・・・・・!!

 

 

 

 

だからこそ、

 

そのミス=失敗ってものは、

完全には無くならない前提の上で、

 

そのミス=失敗を、

小さくして行く必要性があるとも言えますし、

 

そもそもとして、

 

ど〜しても、小さく出来ないミス=失敗ってものは、

リカバリー前提にしておく必要性もまた、

出てくるものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

 

そのような、

上記の方法論の、

 

熟練度を上げて行く術ってものは、

結局は、

 

論理だけにフォーカスを当てて、

そもそもの、

ミス=失敗をしない方法論では無く、

 

そもそも、

 

ミス=失敗を、

あえて、

小さく重ねながら、論理を見失わずに、

脱線しながらも、

邁進して行く方法論とは、

なって行くものでしょう・・・・・・!!

 

 

 

要するに、

 

モデリングするって事の、

失敗するって部分に、当てはまってくるものだと言う事なのです

 

 

 

そのミス=失敗部分ってものは、

 

色んな物事に、

応用・流用出来うるものでもありますし・・・・・・、

 

自分自身、勝手たる失敗を踏まえるって行為自体が、

 

それに巻き込まれた人に、

迷惑がかかったとしても、

 

そのカバーリングとして、

実体験を活用する事が、可能になるものだと言う事です。

 

 

 

 

要するに、

少なくとも、

 

マイナスになったとしても、

マイナス→0のカバーリングは、

保証されるものでもあり・・・・・・・、

 

何の対策も出来ないような、

災害的なミスを回避する為にも、

 

勝手知ったるミス=失敗ってものは、

役に立つ側面を、持ち合わせているものなのですよ・・・・・!!

 

 

 

 

またまた、

そのモデルした人の論理が、

 

そもそもとして、

間違っていたとしても、

 

普通は、そこで、

 

「騙された。」ってなって、

終わりなのかも知れませんが・・・・・・・、

 

そんな事すらお構いなしに、

 

その行動自体を、

無駄にせず、

「己の糧。」とする事が、

可能になるものでもあるのです・・・・・・!!

 

 

 

 

し、

 

そこに結局は、

 

自分自身の、人間臭い、

らしさってものが、体現されるだろうし、

 

そこが結局は、

 

主観的にも、

 

「面白さ。」が、生まれるものではあるのでしょうね・・・・・・(^^)

 

 

まぁ、だからと言っても、

結局は、

 

論理性を、押えておかないと、

話にならないだろうし、

 

何かを達成する事が出来ない、

足下の部分とはなるのでしょうが・・・・・・・、

だからと言っても、

 

足下ばかりにフォーカスを当てたり、

足下ばかり見られているような場ってものは、

ど〜しても、

 

ギスギスするものだろうし、

そこは、

 

代理戦争的な、戦場となるものではあるのでしょうね・・・・・・。

 

 

 

まぁ、だからこそ、

 

勝手知ったる、

ミス=失敗を活用して、

その論理性を、

ゲーム性とか、世界観として、

包み隠す配慮も、必要とはなるのでしょうが。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

応援、宜しくお願い致します(^^)


また違うんだけど、解るわぁ~(共感)ってなっちゃった方は、ポチッとな♪

 


人気ブログランキングへ

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村