自分の感じ方という現実。 | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

 

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

 

自分自身のフィルターを通した、

主観的世界観ってもので、

現実の捉え方ってものは、

決定しているものではありますね・・・・・・・・。

 

 

 

まぁ、

だからとは言っても、

 

客観的な、所謂、

 

一般論とか、

多数の人々が、支持しているような意見ってものも、

決して、

蔑ろに出来る訳では無い事でしょう

 

 

 

 

それらを踏まえた上で、

結局は、

 

自分自身の判断基準をつくる為には、

 

主観的な視点でもあり、

それを展開していった上での、

 

俯瞰的な、ひとまとまりのゲシュタルト(全体像)を構築し、

それによって、

 

現実ってものが、出来上がっているものとも、

言えない事も無いのでは無いでしょうか・・・・・・・??

 

 

 

 

即ち、

 

その上で言える事って言うのは、

結局は、

 

情報収集に明け暮れる事でも無く、

 

自分自身にとって、

ある程度の都合の良い、

物事の見方ってものが、出来る事には、

なってくるのでは無いでしょうか??

 

 

 

 

・・・・・・・・と言うのも、

結局は、

 

客観論ってものは、

決して、

 

見なかったとしても、

消えて無くなって行くものじゃあないものではある事でしょう。

 

 

 

だからが故に、

 

その客観論を論破する、

 

もしくは、

 

その客観論に、打ち勝てるだけの、

 

自分自身にとっての、

 

ある程度の、ご都合主義な情報ってものが、

必須にはなってくるものではあるのです・・・・・・・・!!

 

 

 

 

まぁ、

 

上記であえて、

ご都合主義とは言いましたが・・・・・・・、

 

ただ単に、

都合が良いってだけの情報であれば、

決して、

 

自分自身の納得を得る事が、

難しいものでもあり・・・・・・・・、

 

本当の意味での、

ご都合主義であれば、

 

それによって得る事が出来得るのは、

「問題の先送り。」だけとなるのも、

また、

 

真理ではある事でしょう・・・・・・・・・。

 

 

 

 

が、

その、

 

「問題の先送り。」に過ぎなかったとしても、

 

我々が、

より良く生きて行く為には、

無駄な産物には、なり難いものとは、

なってくるものなのでしょうね・・・・・・。

 

 

 

 

要するに、

 

先送りすることによって、

 

自分自身のフォーカスを、

自分自身が、主導権を持てるところに当て続けることにより、

 

解決策が、見えてきた問題にこそ、

取り掛かって行く事が、

出来るようになる・・・・・・・って事なのです。

 

 

 

 

即ち、

 

解決策が、見えてこない問題ってものは、

 

そこに必要となるのは、

 

その解決策を、熟知した人から、

教えを請うということには、

なってくるものなのでしょう。

 

 

 

 

それはそれとして、

 

お金や時間を割いて、

行っていけば宜しいのでしょうが、

 

教えを請うって行為が、

 

「そのまんま、人に価値提供する形になるか??」

って問題は、

 

いささか、疑問が残るものでもありますし、

 

自分自身が、

人に価値提供する為には、

 

自分自身が解決可能な問題を、

用意し続けることもまた、

肝要にはなってくるのでは無いでしょうか・・・・・・・??

 

 

 

 

要するに、

 

人との付き合いってものには、

大人になれば、

誰しもが、

 

お金のやりくりってものが、

付き物にはなっている事でしょう。

 

 

 

それが所謂、

普通でもあり、

 

その想定が、

高過ぎたり、低過ぎたりする事によって、

ある意味、

 

お金を度外視した関係性に、なって行くものなのでしょう。

 

 

 

 

が、

それは結局は、

 

自分自身の在り方を通した、

居場所的な問題でもあり、

 

基本的に、

 

この、資本主義社会において、

 

お金とか、価値提供ってものを、

完全に度外視する事は、不可能でもありますし、

 

それは、

 

想定が、高過ぎたり、低過ぎたりするって事に、

なってくるものなのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

ま、

だからと言っても、

 

お金や、価値だけを追い求めても、

そこには、

あまり、

 

居心地の良い場所なんて、

出来上がってこないものとはなってくるのでしょうが。

 

 

 

 

また、

だからこそ、

 

お金や価値の循環ってものは、

ある意味、

 

普通と認識する事によって、

 

その各々の、

在り方によって、

 

普通から見て、高過ぎる在り方や、

普通から見て、低めの在り方ってものを、

考慮して行く必要性も、出てくるものではあるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

 

「普通。」って概念自体が、

普通な在り方な人達でしか、

成り立たない側面があるものであり・・・・・・・・、

 

まず、第一に、

 

自分自身の在り方ってものが、

「どれくらい、普通ってものから、ずれているか??」

って認識から、始める事も、

 

大切な要素には、なってくるものなのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

 

そのズレが大きければ大きい程、

 

その人による情報提供ってものは、

あまり、

 

マネタイズには向かない傾向になっていき、

 

そこに集まる人々も、

そのような、

 

ズレが存在する人々とは、

なって行くものなのでしょうね・・・・・・・・。

 

 

 

まぁ、

それが良しにせよ、

悪きにせよ、

 

結局は、

 

その発信者に求められるのは、

 

自分自身の在り方の、

普通との違いって部分には、なってくるものなのでしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

 

ま、

人によっちゃあ、

 

普通に近づけて行く行為が、

求められるものでもあるでしょうし、

もしくは、

 

普通とのズレを認識して行く上で、

 

普通ってものの、

学びを深める行為もまた、

必須にはなってくるものなのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

 

それっていうのも、

結局は、

 

その普通からのズレってものが、

レバレッジとして、

循環して行くものでもあり、

 

決して、

 

普通が正義って事では無いものでしょうし、

 

普通ってものは、

結局は、

 

マニュアル的な要素を、占めて行くものではある事でしょうから。

 

 

 

 

そのマニュアルを押さえた上で、

 

自分自身の在り方に沿って、

 

自分自身、無我夢中になれるような、

居場所を濃く感じるような行動を、

 

その種類もそうでしょうし、

 

そのやり方に拘って、行って行く事が、

肝要にはなるでしょうし、

 

その行為を持ってして、

 

自分自身の幸福感を、紡ぎ上げていけば宜しいものとはなるのでしょうね・・・・・・(^^)

 

 

 

 

まぁ、

だからとは言っても、

 

その無我夢中を、

安心して行う為には、

 

お金とか、価値の循環ってものを、

度外視していては、

中々・・・・・・・・・、

 

出来ないものでもあり、

 

普通ってものに、

近づける行為や、

 

普通ってものを、

押さえておく行為もまた、

無視できないものとはなってくるものなのでしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

 

 

まぁ、だからとは言っても、

 

その行為自体もまた、

 

自分自身の、充実感を伴う行為の、

応用・流用の形態であれば、

 

それもまた、

 

充実感や、幸福感を、得る事が可能な行為とは、

なって行くものなのでしょうが。

 

 

 

 

 

即ち、

 

自分自身の普通ってものも、

大切な要素とはなるのでしょうが・・・・・・・、

 

客観的・・・・・・・って言うよりかは、

 

俯瞰的な普通の在り方ってものを、

知っておく必要性があるって事なのですね。

 

 

 

 

その俯瞰的な普通の在り方ってものを知るって事は、

結局は、

 

自分自身との、

在り方としての、ズレを知るって事でもありますし、

もしくは、

 

普通の在り方から見ての、

自分自身の在り方のズレを知るって事でもあるのでしょう。

 

 

 

 

そのズレを知る事によって、

少なくとも、

 

お金稼ぎだけが、全てでは無いって事実を知ると同時に、

 

お金稼ぎがないと、何事も、安心して継続していかないって事実をも、

知る事にはなってくるものではあるのでしょう・・・・・!!

 

 

し、

また、

 

普通から見た普通ってものは、

逆に、

 

同族嫌悪なのか、なんなのか・・・・・・・・、

 

反発し合う側面があるって事も、

知る事にはなる事でしょう・・・・・・・(苦笑)。

 

 

 

 

まぁ、

おそらくは、

 

普通から見た普通にとって、

大切な要素となるのは、

 

その物事の種類であって、

 

やり方自体は、結局は、

 

同じような普通である為に、

どうでも良くて、

 

「どれだけレアな種類の、物事の種類を、用意でき得るか??」

って事が、大切な要素とはなっていると、

僕自身は推測しております。

 

 

 

ま、

 

普通から、少しズレた人達にとっては、

ど〜でも良いものかもしれませんし、

 

普通から、ズレた人達にとっては、

 

その普通と、自分自身の在り方のズレを知り、

そのレバレッジの効果に、

熟知して行く方が、大切な要素とはなるでしょうし、

 

それらを踏まえた上で、

 

肉体改造するにしても、

 

行動基準を考察するにしても、

 

「普通に近づけて行くのか??」

 

もしくは、

 

「より、重みを構築して行くのか??」

 

もしくは、

 

「ただ単に、ダイエットして行くのか??」

 

もしくは、

 

「少し軽やかな、循環を心がけて行くのか??」

 

・・・・・・・っていう風な、

試みが、必要にはなってくるのでしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

上記の試みは、

そのまんま、

 

「より良く生きる。」っていう風な、

ゲーム性的な要素とはなっているものなのでしょうが、

 

それを具体的な物事・・・・・・っていうよりは、

 

物事の詳細的な、

ミクロの領域まで、

コンパクトにしていけば、

 

色々な要素に、

応用・流用可能なものとはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

まとめとしては、

 

お金や価値の循環には、

普通ってものが、付き物となるでしょうし、

 

普通が解らない、もしくは、

普通を度外視していると、

 

その想定の敷居が、

高くなり過ぎたり、

低くなり過ぎたりして、

 

どんどん、

 

人間味が薄れていってしまうような場と、

成り果ててしまうものではありますね・・・・・・・・(^^;)

 

 

 

 

だからこそ、

 

普通を押さえておくって事が、

大事はなりますが、

 

だからとは言っても、

 

自分自身が、

その普通な在り方になる必要性なんて、無いのです。

 

 

 

ズレを知っていれば良いのです。

 

 

 

・・・・・・・が、

これまただからとは言っても、

 

お金や価値の循環には、

その普通が、必須にはなるのでしょう。

 

 

 

 

結局は、

 

その普通の在り方ってものは、

 

アイドル的な、偶像崇拝的なものかも知れませんし、

 

人々にとっては、

 

想像でもあり、イメージ的な概念でもあり、

ファンタジー的な要素なのかも知れませんが・・・・・・・、

 

こと、

背格好で言えば、

 

そこには確かに、

 

普通な在り方ってものは、

存在しているもんではありますね・・・・・・・・。

 

 

 

ちなみに、

僕自身は、

 

身長ちょい高めで、

体重は恐らく、

思っているよりか重めです。

 

 

 

お腹は出ていないです。(笑)

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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