どもども。
キンジです。
自分自身のフィルターを通した、
主観的世界観ってもので、
現実の捉え方ってものは、
決定しているものではありますね・・・・・・・・。
まぁ、
だからとは言っても、
客観的な、所謂、
一般論とか、
多数の人々が、支持しているような意見ってものも、
決して、
蔑ろに出来る訳では無い事でしょう。
それらを踏まえた上で、
結局は、
自分自身の判断基準をつくる為には、
主観的な視点でもあり、
それを展開していった上での、
俯瞰的な、ひとまとまりのゲシュタルト(全体像)を構築し、
それによって、
現実ってものが、出来上がっているものとも、
言えない事も無いのでは無いでしょうか・・・・・・・??
即ち、
その上で言える事って言うのは、
結局は、
情報収集に明け暮れる事でも無く、
自分自身にとって、
ある程度の都合の良い、
物事の見方ってものが、出来る事には、
なってくるのでは無いでしょうか??
・・・・・・・・と言うのも、
結局は、
客観論ってものは、
決して、
見なかったとしても、
消えて無くなって行くものじゃあないものではある事でしょう。
だからが故に、
その客観論を論破する、
もしくは、
その客観論に、打ち勝てるだけの、
自分自身にとっての、
ある程度の、ご都合主義な情報ってものが、
必須にはなってくるものではあるのです・・・・・・・・!!
まぁ、
上記であえて、
ご都合主義とは言いましたが・・・・・・・、
ただ単に、
都合が良いってだけの情報であれば、
決して、
自分自身の納得を得る事が、
難しいものでもあり・・・・・・・・、
本当の意味での、
ご都合主義であれば、
それによって得る事が出来得るのは、
「問題の先送り。」だけとなるのも、
また、
真理ではある事でしょう・・・・・・・・・。
が、
その、
「問題の先送り。」に過ぎなかったとしても、
我々が、
より良く生きて行く為には、
無駄な産物には、なり難いものとは、
なってくるものなのでしょうね・・・・・・。
要するに、
先送りすることによって、
自分自身のフォーカスを、
自分自身が、主導権を持てるところに当て続けることにより、
解決策が、見えてきた問題にこそ、
取り掛かって行く事が、
出来るようになる・・・・・・・って事なのです。
即ち、
解決策が、見えてこない問題ってものは、
そこに必要となるのは、
その解決策を、熟知した人から、
教えを請うということには、
なってくるものなのでしょう。
それはそれとして、
お金や時間を割いて、
行っていけば宜しいのでしょうが、
教えを請うって行為が、
「そのまんま、人に価値提供する形になるか??」
って問題は、
いささか、疑問が残るものでもありますし、
自分自身が、
人に価値提供する為には、
自分自身が解決可能な問題を、
用意し続けることもまた、
肝要にはなってくるのでは無いでしょうか・・・・・・・??
要するに、
人との付き合いってものには、
大人になれば、
誰しもが、
お金のやりくりってものが、
付き物にはなっている事でしょう。
それが所謂、
普通でもあり、
その想定が、
高過ぎたり、低過ぎたりする事によって、
ある意味、
お金を度外視した関係性に、なって行くものなのでしょう。
が、
それは結局は、
自分自身の在り方を通した、
居場所的な問題でもあり、
基本的に、
この、資本主義社会において、
お金とか、価値提供ってものを、
完全に度外視する事は、不可能でもありますし、
それは、
想定が、高過ぎたり、低過ぎたりするって事に、
なってくるものなのでしょう・・・・・・!!
ま、
だからと言っても、
お金や、価値だけを追い求めても、
そこには、
あまり、
居心地の良い場所なんて、
出来上がってこないものとはなってくるのでしょうが。
また、
だからこそ、
お金や価値の循環ってものは、
ある意味、
普通と認識する事によって、
その各々の、
在り方によって、
普通から見て、高過ぎる在り方や、
普通から見て、低めの在り方ってものを、
考慮して行く必要性も、出てくるものではあるのでしょう・・・・・・!!
即ち、
「普通。」って概念自体が、
普通な在り方な人達でしか、
成り立たない側面があるものであり・・・・・・・・、
まず、第一に、
自分自身の在り方ってものが、
「どれくらい、普通ってものから、ずれているか??」
って認識から、始める事も、
大切な要素には、なってくるものなのでしょう・・・・・・・!!
そのズレが大きければ大きい程、
その人による情報提供ってものは、
あまり、
マネタイズには向かない傾向になっていき、
そこに集まる人々も、
そのような、
ズレが存在する人々とは、
なって行くものなのでしょうね・・・・・・・・。
まぁ、
それが良しにせよ、
悪きにせよ、
結局は、
その発信者に求められるのは、
自分自身の在り方の、
普通との違いって部分には、なってくるものなのでしょう・・・・・・・・!!
ま、
人によっちゃあ、
普通に近づけて行く行為が、
求められるものでもあるでしょうし、
もしくは、
普通とのズレを認識して行く上で、
普通ってものの、
学びを深める行為もまた、
必須にはなってくるものなのでしょう・・・・・・・!!
それっていうのも、
結局は、
その普通からのズレってものが、
レバレッジとして、
循環して行くものでもあり、
決して、
普通が正義って事では無いものでしょうし、
普通ってものは、
結局は、
マニュアル的な要素を、占めて行くものではある事でしょうから。
そのマニュアルを押さえた上で、
自分自身の在り方に沿って、
自分自身、無我夢中になれるような、
居場所を濃く感じるような行動を、
その種類もそうでしょうし、
そのやり方に拘って、行って行く事が、
肝要にはなるでしょうし、
その行為を持ってして、
自分自身の幸福感を、紡ぎ上げていけば宜しいものとはなるのでしょうね・・・・・・(^^)
まぁ、
だからとは言っても、
その無我夢中を、
安心して行う為には、
お金とか、価値の循環ってものを、
度外視していては、
中々・・・・・・・・・、
出来ないものでもあり、
普通ってものに、
近づける行為や、
普通ってものを、
押さえておく行為もまた、
無視できないものとはなってくるものなのでしょう・・・・・・・・!!
まぁ、だからとは言っても、
その行為自体もまた、
自分自身の、充実感を伴う行為の、
応用・流用の形態であれば、
それもまた、
充実感や、幸福感を、得る事が可能な行為とは、
なって行くものなのでしょうが。
即ち、
自分自身の普通ってものも、
大切な要素とはなるのでしょうが・・・・・・・、
客観的・・・・・・・って言うよりかは、
俯瞰的な普通の在り方ってものを、
知っておく必要性があるって事なのですね。
その俯瞰的な普通の在り方ってものを知るって事は、
結局は、
自分自身との、
在り方としての、ズレを知るって事でもありますし、
もしくは、
普通の在り方から見ての、
自分自身の在り方のズレを知るって事でもあるのでしょう。
そのズレを知る事によって、
少なくとも、
お金稼ぎだけが、全てでは無いって事実を知ると同時に、
お金稼ぎがないと、何事も、安心して継続していかないって事実をも、
知る事にはなってくるものではあるのでしょう・・・・・!!
し、
また、
普通から見た普通ってものは、
逆に、
同族嫌悪なのか、なんなのか・・・・・・・・、
反発し合う側面があるって事も、
知る事にはなる事でしょう・・・・・・・(苦笑)。
まぁ、
おそらくは、
普通から見た普通にとって、
大切な要素となるのは、
その物事の種類であって、
やり方自体は、結局は、
同じような普通である為に、
どうでも良くて、
「どれだけレアな種類の、物事の種類を、用意でき得るか??」
って事が、大切な要素とはなっていると、
僕自身は推測しております。
ま、
普通から、少しズレた人達にとっては、
ど〜でも良いものかもしれませんし、
普通から、ズレた人達にとっては、
その普通と、自分自身の在り方のズレを知り、
そのレバレッジの効果に、
熟知して行く方が、大切な要素とはなるでしょうし、
それらを踏まえた上で、
肉体改造するにしても、
行動基準を考察するにしても、
「普通に近づけて行くのか??」
もしくは、
「より、重みを構築して行くのか??」
もしくは、
「ただ単に、ダイエットして行くのか??」
もしくは、
「少し軽やかな、循環を心がけて行くのか??」
・・・・・・・っていう風な、
試みが、必要にはなってくるのでしょう・・・・・・・・!!
まぁ、
上記の試みは、
そのまんま、
「より良く生きる。」っていう風な、
ゲーム性的な要素とはなっているものなのでしょうが、
それを具体的な物事・・・・・・っていうよりは、
物事の詳細的な、
ミクロの領域まで、
コンパクトにしていけば、
色々な要素に、
応用・流用可能なものとはなる事でしょう・・・・・・・!!
即ち、
まとめとしては、
お金や価値の循環には、
普通ってものが、付き物となるでしょうし、
普通が解らない、もしくは、
普通を度外視していると、
その想定の敷居が、
高くなり過ぎたり、
低くなり過ぎたりして、
どんどん、
人間味が薄れていってしまうような場と、
成り果ててしまうものではありますね・・・・・・・・(^^;)
だからこそ、
普通を押さえておくって事が、
大事はなりますが、
だからとは言っても、
自分自身が、
その普通な在り方になる必要性なんて、無いのです。
ズレを知っていれば良いのです。
・・・・・・・が、
これまただからとは言っても、
お金や価値の循環には、
その普通が、必須にはなるのでしょう。
結局は、
その普通の在り方ってものは、
アイドル的な、偶像崇拝的なものかも知れませんし、
人々にとっては、
想像でもあり、イメージ的な概念でもあり、
ファンタジー的な要素なのかも知れませんが・・・・・・・、
こと、
背格好で言えば、
そこには確かに、
普通な在り方ってものは、
存在しているもんではありますね・・・・・・・・。
ちなみに、
僕自身は、
身長ちょい高めで、
体重は恐らく、
思っているよりか重めです。
お腹は出ていないです。(笑)
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。
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