どもども。
キンジです。
被害者意識とか、加害者意識とか言うと、
一見、事故を起こした際の、
被害者、加害者の区別のようにも、
見えガチではありますが・・・・・・、
今回のお話は、それだけを指して、
被害者意識、加害者意識と呼んでいる訳じゃあありません。
即ち、
普通に生活したり、仕事をしたり、
趣味に打ち込んだり・・・・・・etc、
そのような場合でさえも、
我々の頭の中では、
被害者意識、加害者意識ってものが、
存在する事だろうし・・・・・、
またそもそもとして、
思考の言葉ってものや、
意識そのものを、そう、
便宜的に、区別する事が可能なものではある事でしょう・・・・・・・!!
要するに、
事故の場合だと、
それが人身の場合においては、
はっきりと、
被害者、加害者ってものが、
区別可能にはなるものではあります。
・・・・・・・が、
それがただ単に、
思考の言葉でもあり、意識そのものの場合においては、
そこには、
被害者=善人、加害者=悪人って言う風な、
分かり易い、勧善懲悪の形態には、
落ち着かないものではある事でしょう・・・・・・・。
即ち、
それは、
ある種の、
マインドセットを構築する為に、
便宜的に区別していくものでもあり、
被害者意識と加害者意識と言う、
一見、
正反対の方向性を持った意識を、
両面から捉えていく事によって、
その、
両面を兼ね備えた、
現実的な妥協案ってものを、
構築して、展開する為にこそ、
わざわざ、
そんな区別をするものでもあるのです。
だからこそ、
その両面を兼ね備えて、
現実的な妥協案を構築し、展開するからこそ、
被害者意識が気にならなくなるものでもあり、
自分自身の、
意識のフォーカスが、
被害者意識に向いてしまっている状態を、
フラットな状態に、戻す事によって、
被害者意識を克服するって事には、
なってくるのです・・・・・・・!!
・・・・・・・・・と言うのも、
その、
被害者意識の元になっているような問題ってものが、
現実的に、解決不可能な場合も、
勿論、存在しますし、
そもそもとして、
その大元を解決する事によって、
その人が持ち合わせている、
その人らしさ、その人ならではといったような、
その人にとって、
良い意味としか、捉えようが無いようなモノが、
その大元が解決した事によって、
無くなってしまう側面も、また、
現実には存在するのです・・・・・・・!!
即ち、
それを解決してしまうのは、
人任せでは無く、
自分自身の意志と、コミットを持ってして、
好きに行っていけば良いものでもあり、
そもそもとして、
まぁ、
それは、
周りの他人は、
本人が気にする程には、
気にしていない事実もまた、
存在するって事なのです。
まただからこそ、
その大元ど〜こ〜よりも、
もっと大事になるのが・・・・・・・・、
被害者意識を克服するって事には、
当てはまってくる事なのでしょうし、
それは結局は、
その被害者意識に付随してくるであろう、
加害者意識の方に、
その人本来かどうかは、
良くわからないものではありますが・・・・・・・・(笑)、
人としての、
良い意味としか、捉え所が無いモノってものが、
その加害者意識の方に、含まれてくる・・・・・・・って事なのです。
これは、
一見、綺麗事のように、
聞こえガチかも知れませんが・・・・・・・、
ある意味、
「そうとしか、言いようが無いモノ。」とも言えるだろうし、
掘り下げる試みを企んでも、
褒めているのか、責めているのか、区別がつかない試みになってしまいガチで(苦笑)、
「そうとしか、言いようが無いモノ。」と、
表現しておいた方が、無難ではある事でしょう・・・・・・・!!
まぁ、
その、掘り下げていく試みってものさえもまた、
その本人の仕事とはなるものでしょうし、
本人の言い分に、従えば良いものとも言えるのでしょうね。
また、
被害者意識とか、加害者意識ってものは、
原則的に、
その本人の、コンプレックスに付随した意識とも言えるだろうし、
これまた原則的に、
雑念の一種でもある事でしょう・・・・・・・・。
・・・・・・・・まぁ、
被害者意識と加害者意識、
全てを雑念だと、区分してしまうと、
ある意味、
人との言葉によるコミュニケーション、
その全てが、
雑念による・・・・・・・・、
問題意識の押し付け合いのようにも、
感じてしまうものではあるのですが・・・・・・・(^^;)
それもある種の真理なのかも知れないですね・・・・・・(苦笑)。
まぁだからこそ、
行動による、
個人技化、作業化を図る事によって、
その問題を解決するのではありますし・・・・・・・、
雑念を振り払うには、
個人技化、作業化を図る事によって、
能率性を高める以外には、
その方法論は、存在しない・・・・・・って理解も必須にはなる事でしょう・・・・・・!!
その個人技化、作業化を図る為の、
行動にこそ、
自己責任として、責任を発揮すれば良いのではありますが・・・・・・・、
その問題を解決する前に、
被害者意識、加害者意識と区別した上での、
問題の明確化ってものが、
必要にはなるって事ですし、
問題を明確化するって事は、また、
その解決の明確化、回答の明確化をするって事にもなりますし、
それによって、
根本的に解決する為の問題を明確化するのと同時に、
根本的には、解決しない問題もまた、
明確化するって事にもなりますし、
その2種類の回答を持ってして、
今後、
解決していくことが、可能な問題の方向性に、
目星を付けていく事ともなります。
自分自身が、
行動=個人技化、作業化によって、
解決可能な問題を知ること、
解決していくことが、可能な問題の方向性に、
目星を付けていく事が、出来れば、
その問題に特化した上で、
人と、健全的な関係性を、
構築していく事が、可能にはなります。
・・・・・・・し、
それを軸として、
それ以外の、問題の解決方法を知っている、
他人にとって、
その、
問題解決そのものが、
対価となる事によって、
良い関係性が、育まれるものでもありますし、
そのような相手の場合、
お互い、
問題の押し付け合いのような、
時間とエネルギーの無駄になりがちな、
変なコミュニケーションには、
なり難いものでもあり・・・・・・・、
問題提示でさえも、
コラボされる事によって、
お互いの、糧となりやすくなるものではある事でしょう・・・・・・・・!!
けれども、
そんな良い相性の場合を想定したとしても、
結局は、
世界は広いし、世界は多様性である現実を、
忘れてしまわないで、
自分自身の、解決出来得る問題に、
対峙し続けるって事が、
重要な要素にはなる事でしょうし・・・・・・、
それを持って、人との関係性に向き合う事によって、
解決したいかどうかさえも理解不能な、
変な問題に、埋もれる事は、無くなるのでしょうね・・・・・・。
それは結局は、
自分自身の、ポジション取りを、
大きくし過ぎないって事でもありますし、
また、
巨大過ぎるポジションには、
必ずしも、
絶望とまでは言いませんが、
逆境をイメージ出来る世界観を、構築しておく必要性があるのでしょうね・・・・・・・・。
上記の事柄は、
巨大過ぎるポジションでもあり、
もしくは、
小さ過ぎるポジションには、
絶望とまでは言いませんが、
逆境をイメージ出来得る世界観ってものが、
必要である・・・・・・って事と同時に、
自分自身、手が届く範囲での、
個人技化、作業化の世界観、
即ち、
問題の提示と、問題の解決においては、
他人に遠慮する必要無く、
価値でもあり、勝ちを取りに行く・・・・・・・・って事に、
当てはまる事でしょう。
即ち、
手の届く範囲での、
個人技化、作業化にての世界観ってものは、
直接的に、人と向き合って、
戦いを繰り広げるものじゃあ無いだろうし、
それはある種の、
対戦ゲームじゃあ無くて、
個人プレイのゲームではある事でしょう。
その戦いの勝ち負けってものは、
結果的には出るものではありますが、
自分自身が提示した、
問題を解決出来たのであれば、
それはもう、
キチンとした、
価値の創発ではあるでしょうから。
まぁ、
それのモチベーションを維持する為にこそ、
ミクロでもあり、マクロの世界観には、
逆境ってものが、必須にはなってくるのでしょうが。
もう一回言いますが、
必要なのは、
絶望では無く、逆境感なのでしょう。
巨大な世界観においての、絶望は、
ある種の、
生きる希望を失う事にもなり、
やる気、やりがいってものが、
削がれてしまうモノともなります。
それはそもそもとしての・・・・・・・、
ポジションが大き過ぎるって事でもあるだろうし、
何かを諦める為であったとしても、
ポジション自体を、巨大にする必要性なんて無くて、
諦める為には、
その行為をやめてしまえば良いのだろうし、
その代わりとなる、
自分自身、
個人技化でもあり、作業化を図る事によって、
解決可能な問題に向き合ったり、
その問題を明確化する事によって、
その答えを明確化し、
解決可能な問題を軸として、
今後の展望を、展開していけば良いのでしょう・・・・・・・!!
まぁ、だからこそ言いますが・・・・・・・、
巨大な絶望を、感じる世界観に、
付随してくるようなモノは、
たとえ、
個人技化、作業化出来ているようなものであっても、
直ぐに、やめてしまう事を、
推奨します。
ギャンブル的なものが、
結局は、
上記のモノに当てはまる事でしょうが、
ギャンブル的なものであったとしても、
そのゲーム性が秀逸であり、
絶望したとしても、
小さな絶望とか、中位の絶望であれば、まぁ、
そんな心配は無いモノなのかも知れませんし、
それを発火剤として、
巨大な逆境を、描いていく人もまた、
存在する事でしょう・・・・・・!!
また、
問題解決の為の、
個人技化、作業化に必要となってくるのは・・・・・・・、
個人技、作業の、一つ一つを中分化するって事ではあります。
勿論、
問題提示の際には、
多少大きくても良いのだろうし、
逆に、
小さく、詳細化しておいても良いのでしょう。
・・・・・・・・が、
大きな問題や、小さな問題を解決する為には、
個人技化、作業化を、中分化した上で、
数をこなすって事が、
求められる事とはなります。
その、中分化された個人技でもあり、
中分化された作業の数をこなす事によって、
大きな問題や、詳細化された、小さな問題は、
解決可能になるだろうし・・・・・・、
何よりも、
中分化される事によって、
数として、把握し易い=効率、能率を、
肌感覚で感じ取り易くなる利点が、
存在するって事なのです・・・・・・!!
それによって・・・・・・、
勿論、
個人差による、
初心者、熟練者による、
問題解決の速さの違いとか、
そもそもの、
得意な個人技、作業の違いが生じる事によって、
問題解決の速さの違いは生じても、
その個人技でもあり、作業を実際に、
行っていける人であれば、
誰しもが、
問題解決に到達する事が、可能にはなる事でしょうし、
それをある意味、
特化させたければ、
特化する為の、環境マネジメントが必要となりますが、
それでも必須となるのは、
中分化を、共有するって事にはなるのでしょうね。
特化させたから凄いとか、
特化させたから優れているのでは無くて、
原則的に言えば、
中分化の数をこなしたって事実の方が、
優秀さの、測りにはなるモノなのでしょうし、
問題解決に至った事実は、
結果的には同じとなるものなのです。
まぁ、
その問題解決に至った事実の数が、
多ければ多い程、
本来の意味では、
優秀でもあり、天才的でもあり、
達人的ともなるのでしょうが。
それでもまぁ、
問題解決の一は、
誰が行っても、
問題解決に至れば、
同じ一ではあるのでしょう・・・・・・・・!!
・・・・・・ま、あえて言うと、
同じ問題解決経験が多い=おじさん、おばさんでもあり、
年配の方とはなるのでしょうが。
結果的には、
年功序列的にはなりガチではありますが・・・・・・、
それでも、
問題解決の一は、
誰が行っても、
問題解決に至れば、
同じ一なのです・・・・・!!
だからこそ、
キチンと、
自己責任として、
個人技化、作業化を中心として、
中分化を謀り、数をこなす事によって、
問題解決していきましょう・・・・・・って事ですし、
その個人技化、作業化出来得るだけの環境は、
自己責任で、整えて行く必要性もあるだろうし、
別に、
仕事場だけが、問題解決の為の、
個人技化、作業化を行う場所じゃあ無い事でしょうし、
それは個人で用意した上で、
他の場所でも、
応用・流用として活用した方が、
巨大な絶望を、味わないで済むだろうし、
巨大な逆境自体もまた、
個人から描いていき易くなる事でしょう・・・・・・・・!!
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・・。
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