学舎の記憶|廃校を旅するブログ|

誰しもが記憶に残している「まなびや」の形、歴史を記します

見附市立上北谷小学校栃窪分校

■学校データ

創立:1907年

・村立太田尋常小学校栃窪分校として開校。

・1909年に上北谷村立太田尋常高等小学校栃窪分校と改称。

・1910年に上北谷村立上北谷尋常高等小学校栃窪分校と改称。

・1941年に上北谷村立上北谷国民学校栃窪分校と改称。

・1947年に上北谷村立上北谷小学校栃窪分校と改称。

・1954年に町村合併により見附市立上北谷小学校栃窪分校と改称。

閉校:1977年

コメント:

栃窪という土地は一部の人には「栃窪隧道」の方が聞きなじみがあるかもしれない。実は自分は昔トンネルの写真撮影にハマっておりまして・・・でも栃窪隧道自体は行ったことがありません。というか近づけないというか・・・。

それは置いといて。栃窪分校は神社の近くという情報筋があったので該当するところに行ってみた。まぁ栃窪地域自体かなり奥地で車1台分くらいの細い道を通ってやってきたところ、車の留め場所にも難儀した。

申し訳なく少し余裕のある場所に止めさせていただき、5分くらい歩いて現場に到着。まぁ建物は無かった。あたりを見回してみたが、閉校記念碑や門柱などの類のアイテムも見当たらなかった。

ちなみに栃窪集落自体は廃村になっており、田畑作業のために通う元住民はいるようだが、定住者はいない。しかしながらこの神社近くはきちんと草が刈られているようで、てっきり荒れ地になっていると思っていた。集落自体も人が通うだけあり、大きく荒れている様子もなかったので、集落の人たちの愛着がまだまだあることに関心を覚えた。

なお、栃窪分校に向かう途中のお寺があった跡地に石碑が建っている。石井翠山という方の句碑だった。そこの一部分に「栃窪分校」という文字が見られる。

全文を訳すのはとても面倒なので(汗)要約すると、昭和6年に分校へ赴任してきた三沢先生から翠山の俳号をいただいた、と書かれていた。その後翠山は自らを「栃窪仙人」と名乗り、冬場に全員離村するも一人だけ集落に残り、最後までこの地に住み続けたそうだ。傘寿を迎えて亡くなったとあるので、80歳だったことがわかった。

この栃窪という集落は、石井翠山をはじめ元住民からもずっと愛されている土地のようだ。近年は若い人たちが農村保全のための活動も行っているらしい。

(1975年の空中写真。赤い○印が上北谷小学校栃窪分校。青い○印が句碑のあるお寺(現在は更地)。出典:国土地理院

 


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