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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

仏教を判り易く知る資料(30)

2023年02月02日 | 仏教・親鸞聖人

 )常行大悲(じょうぎょうだいひ)の益

無量の智恵に生かされ、無辺の慈悲を賜る

大悲の願船に乗ずれば、いま明らかに救いたもう弥陀の大悲を、常に伝える(行ずる)幸せをいいます。
大悲の願船に乗じたならば、阿弥陀仏の無量の智恵と、無辺の慈悲とに生かされるからです。

無量の智恵を賜るから、獅子のごとく何者にも恐れず、一分一秒休みなく今ハッキリする弥陀の救い(弥陀の本願)を伝えずにおれない、衆生済度の活動となります。

また無辺の慈悲に生かされるから、巨象がジャングルを踏み分けて進むように、外道・邪義の群賊から、どんな嘲笑・罵倒を受けようとも、末代不思議の妙法を独り占めはゆるされない。一刻も速やかに弥陀の大悲を伝えずにおれない、利他行となるのです。
思えば獅子のように荒くたくましく、象のように柔和で力強い、親鸞聖人の御一生が浮かんできます。

以下は、その文証です。

智慧あるが故に、生死にとどまらず、慈悲あるが故に、涅槃に住せず

『大集経』には、真の仏弟子は法を説く時には自分を医王の如く想って説くべし、と教えられています。もちろんこれは、他を見下げて法を説けということではありません。
何者にも恐れず、いまハッキリする弥陀の救いを自信一杯伝えよと、大悲を行ずる重責を教導されたものです。

親鸞聖人は、伝える大悲について、こう教誡されています。

"大悲の願船に乗じて絶対の幸福に救われた者は、阿弥陀仏の大恩に報いるために、弥陀から二つの贈りもののあることを、漏らさず伝え切らねばならない。
弥陀の二つの贈りものとは「往相廻向」(絶対の幸福に救う働き)と「還相廻向」(すべての人を救わねば止まぬ働き)の二つである"

他力の信をえん人は
仏恩報ぜん為にとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし
(正像末和讃)

たとえ、どんなに嘲笑冷笑されようとも、同じことを繰り返し繰り返し分かり易く、弥陀の大悲を伝えんとされる親鸞聖人の熱い常行大悲の言動が、『唯信鈔文意』のお言葉からも汲み取れます。

田舎の人々の文字の意も知らず、あさましき愚痴きわまりなき故に、やすくこころえさせんとて、おなじことを、度々とりかえしとりかえし、書きつけたり。
心あらん人はおかしく思うべし。あざけりをなすべし。しかれども、大方の謗りを省ず、一筋に愚かなるものを心得やすからんとて記せるなり
(唯信鈔文意)

『正信偈』の、煩悩の林に遊んで神通を現す(遊煩悩林現神通)ご金言も、浄土から還って(還相)からの働きばかりではなく、現世から大衆(煩悩の林)の中に飛びこんで自在の活動(遊んで)をすることでもありましょう。

蓮如上人の常行大悲の教導も、多く散見されます。
以下は、その文証です。

自信教人信と候時は、まず我が信心決定して、人にも教えて仏恩になる
(『御一代記聞書』九四)

大悲の願船に乗じたら一人でも多く弥陀の大悲を伝えることが、仏恩に報いることである。

まことに一人なりとも、信をとるべきならば身を捨てよ
(『御一代記聞書』一一五)

一人でも大悲の願船に乗ずるならば、我がことは後にしても、弥陀の大悲を説くべきである。

専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず
(『御一代記聞書』一二二)

(続く)


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