北方美江寺墨俣竹鼻道、その①、北方町歩き。 | 歩いて走って登って、毎日ビールか日本酒。

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西濃地方には東西方向に伸びる旧街道が何本もあります。

北から南に中山道、美濃路、竹鼻街道が並行して通っていますが当然南北方向に移動する人もいたわけで道はあったはず。

さらに北には巡礼地谷汲もあって想像するよりも南北に移動する人は多かったはずです。

Googlemapとか古地図散歩とかを眺めてweb上で得られる道標の内容などを突き合わせるとうっすらと道が見えてきました。

西濃の大きな町、北方から中山道美江寺宿、美濃路墨俣宿を通り現羽島市の中心部竹鼻の町(昔は竹ヶ鼻の表記が多い)への道。

さらに先日購入した「美濃尾張の石碑を訪ねて」や禁断のGooglemapストビューまでを駆使して実行ルートを完成させます。

それがこの赤線のルートです、あんまりがっつり調べすぎると発見の楽しさはそのぶん減ってしまうのですが笑。

街道名はもちろん無いよね。

ここで名前をつけると名付け親になれるのかも・・・しかしセンスが無い!良い名前が浮かばない!

・・・北方美江寺墨俣竹鼻道、で笑。

 

という事で朝の岐阜駅からバスで北方の町に移動。

岐阜農林高校北バス停からまずは本巣郡の中心的な町、北方(きたがた)の町を歩きます。

最近岐阜バスも交通系ICカードで支払いができるようになって利用ハードルが下がりました。

現金払いだと支払い金額の用意が面倒だしプレッシャーだったもんね。

 

非核・平和都市宣言のまち北方町の入り口ゲートをくぐります。

 

あさイチ参拝は子守神社で。

 

すぐに袖壁の家が現れて、期待が高まります。

北方はほぼ一直線に東西に延びる町です。

 

表具店看板、こないだ数十年ぶりに見た「から紙」という言葉がまたもや登場しました。

 

通り沿いには袖壁民家がどんどん登場するよ。

 

 

北方の町のメインストリートは基本ストレートなのですが途中で二か所クランクしています。

そのクランクの一つ目がここ、マップがあって横のお堂には立派な千手観音さまがいらっしゃいました。

 

 

クランクを左に折れたら左手に大井神社という町の中心的神社があり、拝殿横から入る鳥居があります。

 

なんかおかしくありませんか?

 

ここ。

東海地方の神社には鳥居と拝殿の間に「蕃塀」という衝立状のものが建っていることが多いのです。

社殿正面を隠すように、不浄なものから守るようにあるはずなのですが、ここの蕃塀は拝殿の正面ではなく横に横を向いて立っています。

不浄は西から来るのか??

蕃塀はこれから歩く北方のメインストリートの方を向いています、これは今まで見たことなくてちょっと変わっています。

 

北方理髪組合寄進。

床屋さんが何軒もあって賑わった時代のものなのでしょう。

亀崎でもそうでしたが組合名での寄進物のある町はかなり賑わった町だと思います。

 

昭和五十六年バージョン「北方理容組合」もありました。

 

大井神社近くには北方は中心地だったこともありいくつかの史跡が地味目ですが点在しているようなので見に行ってみます。

陣屋跡の標柱とかありましたがスルーして北方城跡へ、といってもここも石碑しかありませんが。

 

石碑では西美濃三人衆の安東(安藤)守就よりも弟郷氏の妻で山内一豊の姉、北方様の事をやけに推していますがなんでだろう?

土佐山内家に入った子孫さんが建てたのかな?

 

もう一つの史跡は郡界石。

 

ただの岩にしか見えませんが郡境の標石だったとのことです。

そしてわりとよくある夜泣石伝説もあるようです、こわー。

 

それではちょっと時間を使ったので急ぎ北方の町の続きを。

 

さすが町の中心エリア、袖壁の家ががどんどん現れます。

 

あっ!

 

「我裸子や」さん正面左だけですがうだつが上がってますよ。

 

727化粧品の看板、新幹線の車窓以外では初めて見ました笑。

 

わかのやさん横の路地もいい感じ。

 

 

菓子とりむらさん2月26日開店って、明後日じゃんか~残念!

 

おおっ、今度はちゃんと両側にうだつの上がっている家が登場!

 

右端にはショーウインドウがあります。

 

ある交差点で右を見ると街道の空気。

やはりこの道は古い道で、今では目立たない道ですが中央通りという名前になっています。

 

 

そして左を見るとお風呂屋さん健在。

 

 

路地を入りすぎるとちっとも進まないので先に行きましょう。

ここでメインストリートは二つ目のクランクです、交差する形の道は百年記念通りという壮大な名前の新しい道でした。

 

ここには秋葉さん。

 

濃尾地震の記憶を残す解説板。

おそらくこの写真は正面に見える今歩いてきたメインストリートの景色。

東海地方ではいろんな場所で濃尾地震と伊勢湾台風の被害の記録を見かけます。

 

クランクを曲がり進みます。

 

バスを降りてからかなり歩いてきましたがまだまだ商店街は続きます。

今は静かな町になってしまってるけど賑わったんだろな。

 

 

 

これは古い町並みに現れる元銀行の洋館では?

啓文社記念館。

 

銀行ではなく出版系の会社だったとのことですが町では古い時期の鉄筋建築、今はイベントなどにつかわれています。

 

 

でもやはり開いている店はほとんどありません、寂しい。

 

2キロほど北には大きなショッピングモールがあるし・・・。

 

 

 

 

 

錆びたスプライト看板。

 

よく見ると奥にもなんかあった。

 

橋が見えてきたら、長い北方の町もここまでです。

 

糸貫川の八ツ又橋、ここまで約1.7キロの北方の町歩きでした。

ここから先は中山道美江寺宿までの街道歩き的区間に進みます、続きます。