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秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その5・広瀬武夫顕彰会員・秋山兄弟生誕地を表敬訪問

2022年07月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成25年6月29日、広瀬武夫の出身地である、大分県竹田市から広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員のうち、10名が秋山兄弟生誕地を訪問されました。広瀬武夫と秋山眞之の友情が109年後に再び、伊豫松山の秋山邸で再会されたのです。

画像は、広瀬武夫顕彰会会員各位に挨拶をする、故、宇都宮良治常務理事(於:秋山兄弟武道館)です。

広瀬武夫顕彰会設立は、平成21年1月24日に設立されたそうです。

早速、秋山兄弟生誕地を、女性研究員がご案内しました。まず、最初に秋山眞之の胸像について説明です。

秋山眞之胸像前で訪問記念撮影されました。

秋山眞之が尊敬していた兄、秋山好古騎馬像の前でも!!

秋山兄弟生誕地のスタッフと一緒に。

そして、南 次郎陸軍大将が揮毫した「秋山両将之碑」の前で記念撮影されました。

南 次郎陸軍大将も大分県出身の方で、大東亜戦争の時、満州事変の総責任者としてA級戦犯になり、東京拘置所に収監されましたが大病を患い、マッカーサー元帥の特別な計らいで、拘置所外で(自宅)治療され一命を取り留めた強運の強い人でした。

秋山好古・眞之の銅像が、松山市梅津寺駅(伊予鉄道高浜線)近くにある公園の一角に建立されており、広瀬武夫顕彰会御一行は、研修の場所を変えられました。

秋山眞之の立像の前には、旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石「護国の石」が展示されており、その石を確認にするために行かれた時の一連の画像です。

昭和6年、秋山眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里松山の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立されましたが、昭和18年に銅像は大東亜戦争の時、金属供出され潰されました。

その後、昭和38年、四国八十八ヶ所第51番札所石手寺境内に再建立されましたが、石手寺の都合で、昭和43年9月伊予鉄梅津寺公園の一角に移設建立されたのが現在の銅像であります。

画像手前の石が、広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)であります。

画像手前の石が、広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)であります。

旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)を神妙に確認される広瀬武夫顕彰会御一行。

秋山眞之銅像の前に展示されている広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石(護国の石)で、広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員各位はその時の情景を脳裏に描きながら手を置き広瀬武夫を偲んでおられた。

広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石(護国の石)です。

秋山眞之は、広瀬武夫が第2回目に出陣する直前の、明治37年3月24日、「福井丸」に広瀬武夫を訪ね無事帰還を願ったが、最後の別れとなった。
日露戦争後、自沈させた福井丸はその後引き上げられ、バラストとして積まれていた石が広瀬中佐の故郷である竹田に運ばれ、現在の広瀬神社の戦没者慰霊碑の礎石として使われている。

そのうちの一つが松山市に贈られ秋山眞之の像の前に置かれている。画像はその石(護国の石)です。                                     

広瀬武夫顕彰会各位は、広瀬武夫・秋山眞之との友情の証として贈られてきた「護国の石」の確認も終え秋山眞之銅像の前で。

秋山眞之銅像と護国の石の配置関係。

”つぶやき”

激変する社会情勢の中で車社会となり、歩き遍路から車での遍路とった。
第51番札所石手寺は、駐車場を整備することになり、秋山眞之の銅像が邪魔になり移設をすることになった。

ある観光関係のウエーブサイトに書かれている言葉に「石手寺から銅像を移設する際、一部の人から「軍人の銅像など要らぬ、潰してしまえと言う声があった。」と書かれている。
移設先きがなく、困惑しているとき、伊予鉄道が所有している梅津寺公園の見晴山山麓に移設を引き受けたのである。・・松山は文学の街俳句の街ですから・・でしょうね・言ってはいけないことを言ってしまった。!!

石手寺の銅像を移設する際、受け入れ先がなく、困っていた時に伊予鉄道が管理する見晴山に移設したのではないでしょうか。??・・伊予鉄道さんアッパレであります。

松山市梅津寺町見晴山山麓にあった秋山眞之の銅像は、平成 30 年7月の西日本豪雨で秋山眞之銅像付近が崩壊したため、観光に来られた方々が秋山眞之銅像の場所に行けないので令和元年12月9日場所を変更移設しました。

変更場所は、見晴山入口の小高い丘にある秋山好古銅像の傍に移設され、好古・眞之兄弟が並んで建つことになりました。

兄弟の銅像が並んで建っているのは全国でも非常に珍しいことだと思います。

※ 令和元年12月9日、秋山眞之の銅像は場所を変更移設されましたが、広瀬武夫神社から贈られてきた「護国の石」が移設されてないので、是非移設展示して下さい。

大切な、深い意義のある「石」ですから。

昭和6年、秋山眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して銅像が建立された。その時、東郷平八郎元帥から贈られてきた「智謀如湧」が台座に付けられました。

昭和18年に道後公園に建立された立像は大東亜戦争の時、金属供出され潰されましたが、「智謀如湧」の銘板は保管されていました。

昭和38年、四国八十八ヶ所第51番札所石手寺境内に再建立された時、台座に付けられ再び日の目をみたのであります。

画像は、現場所に移されたもので、台座には、金属供出を免れた東郷平八郎の「知謀如湧」の揮毫が埋め込まれている。

  • 東郷平八郎は、88歳の昭和9年5月30日まで長生きして居られたので、頼まれずいぶん多くの揮毫を書いている。

・島村元帥には、「智信仁勇厳」

・加藤友三郎元帥には「終始一誠意」

・秋山眞之中将には「智謀如湧」で、最高の揮毫です。それだけ東郷平八郎は、秋山眞之を信頼と、これからも出てこない日本最初で最後の武士魂を持った知将海軍軍人と思っていたのではないでしょうか。

もう少し長生きしてほしかった。

・昭和の海軍は、秋山眞之の軍事学を正しく受け継いでなかったため国は敗れることになったと・・ある書籍に記載があります。・・・その通りだと思います。

令和元年12月9日移設された新しい場所に立つ秋山眞之銅像は、日本海対馬海峡で帝国ロシア海軍・太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称・バルチック艦隊)を撃滅した対馬海峡を望むように建っています。

秋山好古の銅像は、激戦奉天の戦いのあった方向を望むように建立されています。

日露戦争に負けていれば、日本国は、ロシアの支配下になっていたでしょう!!

秋山眞之の説明板です。

秋山眞之銅像台座裏面に埋め込まれている資料一覧です。

これからは、大分県竹田市の広瀬神社の画像です。

平成20年9月25日、広瀬神社に伺った。
神社一之鳥居左側に「広瀬武夫中佐」の胸像が建立されていた。

現在は、立像に変更されているようです。

「広瀬武夫中佐」の胸像の説明板・・現在もそのままなのでしょうか?

神社一之鳥居右側に「懸社廣瀬神社」の立派な社号碑が建立されていた。

神社一之鳥居から急登な石段を上り振り向くと竹田の城下町が見えた。

昭和10年5月25日に広瀬神社が創建されたそうです。

境内には、日露戦争に関する記念建造物が多くあり、広瀬記念館の下には戦艦朝日のカッターが展示されていた。

広瀬神社境内の一角に、広瀬武夫記念館がある。

広瀬武夫記念館。

広瀬武夫記念館入り口に「海軍中佐 広瀬武夫」の説明板があった。

広瀬神社社記も掲示してあった。

広瀬武夫海軍中佐略年譜。

これからが本題です。

境内の一角に、「戦没者名碑」が建立されており、この碑の台座に旅順港閉塞作戦で使われた石が台座に使われているそうです。

合祀者名簿の碑は、昭和33年建立されたそうです。
台座に閉塞船「福井丸」に積まれていた石が使われている。

台座に閉塞船「福井丸」に積まれていた石が使われている。・その説明板。

説明版によると福井丸に搭載されていた石で日露戦後引き上げられ、広瀬神社に奉納されたとのこと。
昭和33年にこちらの合祀者名碑が建立された際に8つが台座に埋め込まれたそうです。
昭和38年、松山の梅津寺公園に秋山眞之像が移設建立された際、広瀬と秋山の友情の証にということで松山市の関係者から所望されひとつを贈ったと・・記載されている。

ここからは、東京青山霊園に眠る広瀬武夫海軍中佐の墓所です。

平成20年12月7日、墓参に行った時の画像です。

広瀬武夫海軍中佐の墓は、兄・廣瀬勝比古海軍少将が建立した。

そして、廣瀬勝比古海軍少将の墓は、家族が広瀬武夫海軍中佐の墓と同じ大きさの墓石で兄弟仲良く建立されている。

二人の墓石の間に見える建造物は、六本木ヒルズ森タワーです。

広瀬武夫海軍中佐の墓で、軍神に相応しい立派なお墓でした。

青山霊園から望む「六本木ヒルズ森タワー」です。

平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年祭事業(明治150年記念)の一環として、「廣瀬武夫からの絵はがき」P161が刊行されました。

日露戦争で戦死し、「軍神」として祀られた広瀬武夫が古里・竹田市の肉親に送った絵はがき「70通」を紹介した「広瀬武夫からの絵はがき」が刊行された。生誕150年祭の記念出版書籍です。

この書籍は、広瀬武夫顕彰会会員の方から贈って頂き私が大切に所蔵しております。

平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年祭事業(明治150年記念)の一環として、「廣瀬武夫からの絵はがき」P161が刊行され、その一項に、廣瀬武夫顕彰会名誉会長 作家 元東京都知事 石原慎太郎氏が投稿されている。・・石原慎太郎さんはご逝去されました。ご冥福をお祈りします。

石原慎太郎氏のお父さんは、山下亀三郎が創設した「山下汽船」の社員で、愛媛県出身である。

 

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