本ブログでは、原日本紀仮説(『日本書紀』には紀年延長操作の施される一段階前の『原日本紀』が存在したという仮説)に基づいて、無事績年を削除し、紀年を復元し、さまざまな事柄について考察してきました。
しかし、紀年復元が最優先だったため、年代的にもさまざまに前後し、書き散らかしてきた感が否めません。
そこで、自分の考えを改めて確認する意味でも、天皇をはじめとする登場人物を軸に年代記をまとめていこうと思います。
用いる時間軸は復元した「原日本紀年表」です。
最初にお断りしておきますが、私は『原日本紀』がすべて真実の歴史とは考えていません。『日本書紀』は720年に「正しい歴史として編み上げられ、正しいと確定された歴史」です。その元となった文書が『原日本紀』です。そこには編纂段階でさまざまな思惑が反映されているはずだからです。
そうはいっても、7世紀以前について書かれた文献で『日本書紀』がもっとも真実に近い歴史を記述していることは間違いないと思っています。『日本書紀』の本文に記された内容を最大限尊重しながら進めていきます。
ただし、私の復元した年代観に多くの異論があることは承知しています。また、多くの推定も交えての記述になると思いますので、ご納得がいかない場合はフィクションとしてお読みいただければよいかと思います。
では、まず初代の天皇からはじめていきます。本ブログをお読みいただいている方はよくご存じだと思いますが、私は山幸彦・神武天皇・崇神天皇の同一人物説を提唱していますので、初代天皇とはその人物のことです。
初代天皇
・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)
・神武天皇(神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと))
・崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと))
誕生年:250年
即位年:301年(52歳)
*書紀設定では神武天皇:紀元前660年(52歳)/崇神天皇:紀元前97年
崩御年:320年(71歳)
*書紀設定では神武天皇:紀元前585年(127歳)/崇神天皇:紀元前30年(120歳)
父:天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
母:鹿葦津姫(かしつひめ)(別名:神吾田津姫(かむあたつひめ)・木花之開耶姫(このはなのさくやひめ))
【250年:誕生】
高天原(たかまがはら)から日向(ひむか)に天孫降臨した瓊瓊杵尊と日向にいた鹿葦津姫の間に生まれる。天照大神(あまてらすおおみかみ)は曾祖母、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は曾祖父にあたる。
【~293年:~44歳】※ここは、『日本書紀「神代」の真実』で考察した私の仮説に基づきます。
日向で成人した初代天皇は、吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って、二人の間には手研耳命(たぎしみみのみこと)が生まれる。
初代天皇が30歳を過ぎた280年代になると、後に隼人(はやと)らの始祖となる火闌降命(ほのすそりのみこと)(海幸彦)の勢力の度重なる攻撃に悩まされることになる。
そこに現れるのが塩土爺(しおつつのおじ)という老人である。塩土爺は吉備の海神(わたつみ)である事代主神(ことしろぬしのかみ)との連携を持ちかける。それに応じた初代天皇は、塩土爺の手引きで吉備にあった事代主神の宮を訪ねることとなる。事代主神は大和において饒速日命(にぎはやひのみこと)に国譲りを強いられた後、吉備に逃れて宮を造営していたのである。
おそらく280年代半ばに吉備を訪れた初代天皇は、事代主神と同盟を結ぶ。両者の目的は、日向の平定と大和の奪還である。そして、滞在中にその娘である後の初代皇后(豊玉姫(とよたまひめ)=媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))を妃とする。その時に授かるのが、神八井耳命(かむやいみみのみこと)である。
事代主神と同盟を結んだ初代天皇は、まず日向に戻って火闌降命の勢力を征圧する。事代主神の軍勢や武器の供与があったと思われる。
【294年:45歳】
10月5日、初代天皇は平静を取り戻した日向を後に、一族を率いて東征に旅立つ。まず目指すのは、事代主神が待つ吉備である。宇佐の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)、岡水門(おかのみなと)を経て、年末の12月27日には安芸国の埃宮(えのみや)に着く。
【295年:46歳】
3月6日に吉備国に入り、高島宮(たかしまのみや)を造営する。
こののち、事代主神と力を合わせ、3年間をかけて船舶を揃え武器や食糧を蓄えて、大和進出のための準備をする。
滞在中の297年に初代皇后との間に後の垂仁天皇(すいにんてんのう)が誕生したと思われる。
※私は「吉備」が神武東征のカギを握っていると考えています。
■吉備津彦神社
■吉備津神社
【298年:49歳】
2月11日に、初代天皇と事代主神の軍は吉備から大和に向かって進軍する。事代主神は高齢のため(240年生まれと想定すると60歳手前)、随行しなかったかもしれない。
瀬戸内海を東に進み、難波碕(なにわのみさき)、河内国の白肩津(しらかたのつ)を経て、生駒山を越えて奈良盆地に入ろうとする。しかし、4月9日、孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦(ながすねひこ)の軍に迎撃され敗れてしまう。
敗退した天皇は紀伊半島を回り込んで、日を背にして大和に入るルートを選択する。実際には紀の川・吉野川をさかのぼるルートだったと考えることもできる。幾多の困難を、日臣命(ひのおみのみこと)や八咫烏(やたのからす)、弟猾(おとうかし)らの活躍によって乗り越えて、ついに12月4日、長髄彦との再戦に臨む。戦況は膠着するが、最終的に改心した饒速日命が義理の兄である長髄彦を殺して帰順することで、神武天皇は大和進出を果たすことができる。
【299年:50歳】
最後まで帰順しなかった新城戸畔(にいきとべ)、居勢祝(こせのはふり)、猪祝(いのはふり)という三勢力を征圧し、土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた人たちを殺す。これによって奈良盆地内は平定される。
この年、畝傍山(うねびやま)の東南にある橿原(かしはら)の地を選び、都づくりに着手する。
【300年:51歳】
吉備から事代主神の娘である初代皇后(ここでは媛蹈鞴五十鈴媛)を呼び寄せて、正式な妃とする。
【301年:52歳】
1月1日、橿原宮で即位する。ここにヤマト王権が誕生し、現代につながる天皇の系譜がはじまる。
(後半生につづく)
■初代天皇の系譜
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(参考文献)
坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫
宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
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