成務天皇:334年誕生~373年崩御/原日本紀の年代記〈9〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

成務天皇の治世は60年間だったとされますが、事績はほとんど語られることはなく、無事績年は53年にのぼります。

*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。

 

成務天皇

・稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)

*書紀設定では第13代天皇

 

誕生年:334年

 

即位年:367年(34歳)

*書紀設定では西暦131年

 

崩御年:373年(40歳)

*書紀設定では190年(107歳)

 

父:景行天皇

母:八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)

 

 

【334年:垂仁32年:誕生】

景行天皇の第4子(?)として生まれる。

*成務天皇は景行天皇の第4子であると成務天皇即位前紀は記しますが、書紀を読む限り第3子となります(第1が大碓皇子、第2が小碓尊=日本武尊)。

*この誕生年は立太子記事から算出したものです。景行天皇紀51年条に立太子記事がみられますが、年齢は記されていません。一方、成務天皇即位前紀には景行天皇46年に24歳で皇太子となられたという記事がみられます。そして、景行天皇紀は43年条と51年条の間が無事績年となっています。どこを基準にするか難しいところですが、ひとまず景行43年と景行51年の間に景行46年を想定し、その年齢を24歳とすると、景行51年(原日本紀年表で358年)は25歳となりますので、それを基準点としました。

 

【358年:景行51年:25歳】

皇太子となる。

 

【367年《即位》:成務元年:34歳】

1月5日に即位される。

 

【368年:成務2年:35歳】

11月10日、景行天皇を山辺道上陵(やまのべのみちのえのいささぎ)(奈良県天理市)に葬る。

 

【369年:成務3年:36歳】

1月7日、武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣(おおおみ)とされる。天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたので、特に重用された。

*書紀では、天皇を補佐する大臣はここから始まったとされています。つまり、武内宿禰が史上最初の大臣ということになります。またこの記事から、武内宿禰の誕生年を成務天皇と同じ334年と設定することができます。それによって300年近く生きたとされる武内宿禰を現実の人物として復元することが可能になります。そういう意味で重要な記事と言えます。

 

【370年:成務4年:37歳】

2月1日、詔して、「先帝(景行天皇)は聡明で武勇に優れ、天命を受けて皇位につかれた。天にかない、人にしたがって、賊は排除して正しい道に戻された。徳はすべてを覆い、道は自然にかなっていた。それで、天下に従わないものはおらず、すべてのものが安んじていた。いま自分が後を継ぎ、日夜おそれ慎んできたが、民の中には虫のようにうごめき、よくない心を持った者がいる。これは、国郡(くにこおり)に長(おさ)がおらず、県邑(あがたむら)に首(おびと)がいないからである。今後は国郡に長を立て、県邑に首を置こう。各国の長に相応しい者を取り立て、国郡の首長に任ぜよ。それは王城を護る垣根となるだろう」と言われた。

*景行天皇の治世に、天皇と日本武尊の功績によってヤマト王権の治める地域が現在の東北地方から南九州にまで広がります。各地方を治めるために統治機構が必要になったということでしょうか。

 

【371年:成務5年:38歳】

9月、諸国に命令して国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑に稲置(いなき)をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした。山河を境として国県を分け、たてよこの道にしたがって邑里(むら)を定めた。東西を日の縦とし、南北を日の横とした。山の南側を影面(かげとも)、山の北側を背面(そめん)という。これによって人民は安心して暮らせるようになり天下は平穏であった。

*成務4年の記事を受けて、地方制度の確立が語られます。しかし、ここに記される制度はかなり後世(6〜7世紀以降)のものであろうと考えられています。成務天皇の事績とされるのは、この地方制度の確立ぐらいです。それが違うとなると、本当に成務天皇は実在されたのか怪しいということで、成務天皇の非実在説も唱えられているようです。しかし、前代の景行天皇の時代にヤマト王権の支配地域が大きく広がったのであれば、当然なんらかの統治機構は必要になります。役職など文言は後世のものが引用されているとしても、成務天皇が似たような地方制度を整備されたと考えてもよいと思います。

 

【372年:成務48年:39歳】

3月1日、甥の足仲彦尊(たらしなかつひこ)(後の仲哀天皇)を皇太子とされた。

*成務天皇には後を継ぐ皇子がいませんでした。不思議なことに皇后の記載もありません。ちなみに古事記では弟財郎女(おとたからのいらつめ)という皇后と和訶奴気王(わかぬけのみこ)という子がいたとされています。

*仲哀天皇は日本武尊の皇子です。書紀は成務天皇の甥と記しますが、原日本紀仮説によって復元した系譜では従兄弟ということになります。この復元により、書紀の矛盾を含んだ年代設定が自然なものとなります。(下記系譜参照)。

 

【373年:成務60年:40歳】

6月11日、崩御される。107歳であった。

 

■成務天皇陵(佐紀石塚山古墳/狭城盾列陵):奈良市

書紀は成務天皇が狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬られたと記しています。しかし、神功皇后も同じ狭城盾列陵に葬られたとされているのです。一時は比定に混乱が見られたようで、神功皇后非実在説の私としては怪しさを感じずにはいられないのですが、現在は成務天皇陵が狭城盾列池後陵(さきたたなみのいけじりのみささぎ)、神功皇后陵(五社神古墳)が狭城盾列池上陵(さきたたなみのいけのえのみささぎ)と治定されています。

 

 

■書紀系譜と原日本紀仮説による復元系譜

 

 

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(参考文献)

坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫

宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫

 

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