あけましておめでとうございます。
いつもこのブログをお読みいただきましてありがとうございます。
年の初めにあたって、「邪馬台国と日本書紀の界隈」の邪馬台国に関する基本的な考え方を改めて記しておきたいと思います。
それは、「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
ひと言でいうと以下のようなものです。
* * * * *
【魏志倭人伝後世書き換え説の概略】
280年代に完成した陳寿の『三国志』魏志倭人伝には、不彌国から邪馬台国までの行程記事にも不彌国以前(帯方郡→狗邪韓国→対馬国→一大国→末盧国→伊都国→奴国→不彌国)の行程と同様に具体的な里数表記がなされていた。
しかし、後世、宋の時代、430年代に完成した范曄の『後漢書』が邪馬台国の位置を誤認した。魏志倭人伝が「会稽東治の東」=九州南部としていた邪馬台国の位置を、後漢書倭伝は「会稽東冶の東」=沖縄だという風に約600kmも南だと誤認した。
その誤った地理観が皇帝のお墨付きを得て普及し定着することによって、三国志魏志倭人伝と後漢書倭伝の倭国観に決定的な違いが生じることとなった。
そこでこの違いを埋めるために、三国志魏志倭人伝の写本において、不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る「南への行程」が具体的・絶対的な里数から相対的であいまいな日数へと書き換えられた。現在私たちが目にする不彌国から投馬国への水行二十日、投馬国から邪馬台国への水行十日陸行一月というように書き換えられた。
* * * * *
この「魏志倭人伝後世書き換え説」をもとに、当ブログではいろいろなことを綴っています。
さて、では書き換えられる前の具体的な里数はいくらだったのでしょうか?
これは「魏志倭人伝後世書き換え説」という仮説だけでなく、「書き換えた人が本来の里数を尊重したうえで書き換えた」というような前提も入ってきますから単なる推理(あるいは憶測)となりますが、
不彌国から投馬国へは水行六百里
投馬国から邪馬台国へは水行三百里陸行四百里
という合計1300里の里数だったと考えています。
算出の詳細はYouTube「古代史新説チャンネル」にまとめていますので、よろしければご覧ください。
【邪馬台国の界隈031】これが邪馬台国までの「道里」だ! 邪馬台国への方程式「3y+z=13」に解答が!
そして、この里数にしたがって、私が不彌国だと比定した現在の博多駅南に広がる比恵・那珂遺跡群から南へ水行すると、投馬国は筑紫平野、郡使たちの立ち寄った中心集落は(現在発見されている遺跡の中に探るなら)吉野ヶ里遺跡だろうと比定しました。
さらに、吉野ヶ里遺跡から南へ水行陸行すると、邪馬台国は熊本平野、郡使たちの到着した最終目的地となる中心集落は方保田東原遺跡だろうと比定しました。
この結果、私は邪馬台国「熊本説」を提唱しているというわけです。
本年もよろしくお願い申し上げます。
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(参考文献)
坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫
宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
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