ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

農家の廃屋

2022-09-18 | アメリカ事情 人間性

Picture: SALLY DENG 

 

 

 

 

 

つい先週まで3桁の気温で一時は華氏120度(摂氏48.89度)まで 上昇したのに、週末にはアリゾナ、ネヴァダ、そしてカリフォルニアにかかっていたメキシコからのモンスーンが、降雨をもたらし、今週は初秋の気配が漂い始めている。 そうした大気のあまりの逆変に、やっと、本が落ち着いて読める、とワクワクさえして、手に取ったのは、Dear Country Agent GuyというJerry Nelsonジェリー・ネルソン氏の著書だ。 その中の一文にしんみりとして、ますます初秋を感じた私である。 下にその箇所を訳してみた。 私の好む秋をお感じあれ。 この本は、アマゾンで入手できる。 (和訳があるかは不明)

 

 

古い農家屋は放棄され、バラバラになりつつあった。 しかし、だからと言ってその廃屋を解体することは、作者の過去を破壊するに等しいことである。

1963年、65歳のとき、作者の祖父、アーウィンは愚かとも言えるプロジェクトに取り組むことにした。 彼は新しい家を建てたかったので、それまで使用していたその古い家をどうするか迷っていた。 それを取り壊すのはもったいなく思えたが、かと言ってその家屋の立つ場所に新しい家は建てられるはずだった。 どうしたら良いか、はっきりとしたことは考え付かなかった。 倹約・節約を頭に考えあぐねた結果、インスピレーションを受けたかのように、瞬間に、祖父はブルドーザー作業員を雇って古い家を遠くの木立に押し込むことにした。 そうして、あの古い農家屋は今もそこにある。

祖父アーウィンと祖母エリダが亡くなり、私は彼らの地所から農場を購入した。 妻と私はこの場所で息子たちを育て、30年以上ここに住んでいる。 私たちが当初引っ越してきたとき、妻は例の木立に遺棄された廃屋を一目見て、危険だと宣言した。 私は同意し、巨大な焚き火を計画した。 しかし、価値のあるものが置き忘れられた場合に備えて、まず最初にその廃屋をチェックするのが賢明だと思った。

2人の幼い息子が付き添い、廃屋があった牧草地の背の高い草の中を歩いて行ったが、たどり着くまで、かなり時間がかかった。 たどり着くとフロント・ポーチ自体が崩壊し、ほとんどの窓がなくなり、外壁が落ちていた。 開いた窓から中に入ると、まるでスカンクが床板の下に住んでいたような匂いがした。

タイムカプセルの過去の時空に迷い込んだような気分だった。 ここには、祖父母の生活のさまざまな残骸が横たわっている。壊れた椅子。 麻袋に入った古着。 穀物エレベーター(サイロ)の温度計。しかし、私の目を引いたのは、書類が詰まった段ボール箱だった。私はその内容物を調べようと、箱のなかを掘り起こし、即座に時間を遡っていた。  1957年からの納税申告書があった。 1962年6月からの使用された小切手類。 古い友人や親類からのグリーティング・ カード、今では差出人はすべて亡くなっている。 叔父の小学3年生時の綴り方の本。

私はその箱を掘り起こしながら、多くの楽しい時間を費やした。 その間ずっと、息子たちは、この廃屋に関する一連の質問をし続けていたので、それらに答えなければならなかった。 息子たちは、かつて 総勢9人の家族が、水も電気も通っていなかったこの小さな家に住んでいたことに驚いていた。 作者は、寒い冬の朝、台所のコンロのすぐ隣に置いてあったバケツ一杯の水が氷で覆われていたことなどを話した。 そして、当時はそのコンロが唯一の熱源だったと話すと、息子たちは震えた。

タイムカプセルのような、この古い家は、故に焚き火の末路を免れたのだった。

年月が経ち、廃屋への訪問は稀になっていった。 古い家は再び牧草地で一人孤独を楽しんでいたようだった。 作者や家族たちが人生を急足で歩んでいると、時折あの木々の間から廃屋を垣間見ることができるので、人はなんだろうかと不思議に思うかもしれない。 今は荒屋(あばらや)になったあの家が、どのようにして砂嵐や洪水、吹雪、大恐慌を生き延びられたのだろうか?  そこに住んでいた家族の人々は、私たちよりも堅固な逞しいものでできていたに違いなかった。 子供の頃、牧草地の背の高い草を分け入り、先を歩く父の足跡をたどるのに苦労したことを思い出した。 それでも、父と同じように、農業ほど崇高な生業は作者には想像できなかった。

そして、4月のある朝突然、作者の父が68歳で大規模な心臓発作で事切れた。 作者を含めて家族全員が彼の死にショックを受けた。

作者の父の葬儀が終わった直後に、何故作者があの廃屋に出かけたのかは、作者の理解を超えていた。 まるで彼を呼んでいるかのようだった。 木々でさえ、いらっしゃい、訪問なさい、しばらくそこへいなさい、というような招待を囁いているようだった。

再びあの古いリノリウムの床に立ったとき、彼の目は床に散らばった書類に引き寄せられた。 経年で黄ばんだ封筒が古い書類の上に置かれていた。 封筒には「海軍検閲官通過」と青いインクのスタンプが押されていた。 どうしてこの由緒ありげな遺物を見逃せようか?  作者の父は第二次世界大戦中、USSワシントンに乗艦していて、できる限り家に手紙を書いていたと聞いている。 作者の祖母はそんな息子の手紙をすべて保存していた。

作者はその封筒から一通の手紙を慎重に取り出した。 それは 1944年9月の日付だった。 彼の父は当時18歳で南太平洋のどこかにいたはずで、作者にはなじみの筆記を目にして、読んだ。 まだ18歳だった父は、燕麦(オーツ)の収穫がどうだったのか、作者のやはり歳若かった叔父の新しい農耕馬がうまく働いているのか、などと尋ねている。 作者の父は彼の一番下の弟が、小学1年生になろうとしていると仮定し、頼りになる役立つ若い少年になりつつあると想像もしているようだった。 作者の父は母親に、みんなによろしく伝えてほしいと頼み、自分がどれだけみんなが恋しいことかと書いていた。

行間を読むのは難しくなかった。 この手紙には、それまでの全生涯を両親の農場の草原のこの草の海に住んでいた、まだうら若いホームシックの若者、本当にはまだ子供だった子が、その手紙をしたためたとき、全く別の種類の海にいたのだった。 戦争中の世界の雷と稲妻によって荒らされていた海であった。 手紙の一番下に、下線が引かれた活字で、作者の父は最後のメッセージを伝えていた。 父が慎重に強調した次の言葉を読んだとき、作者の目に涙があふれた。 "心配しないでください僕は元気です。"

その日、古い家を出るとき、作者は肩越しにその廃屋を最後にもう一度見返した。 誰がどう思おうと、彼は決めた。 その廃屋は、自ら朽ち果てて、土に還るまでそこにとどまると。

 

 

ここでお知らせです:コメントをいただいて、今日お返事を書きました。大変遅れてしまい、誠に申し訳ございません。一つ一つのコメントに深く感謝致しております。ありがとうございます。

 


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